ローレンス・シルバーマン(4) ー 合成の誤謬(ごびゅう) ー
一人一人が合理的に行動したら、世の中は良くなる?
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「小論文を学ぶ」の75ページ。・・・・・要素に還元して考えたことがそのまま全体では成り立たないということは経済学でも起こる。たとえば「倹約のパラドックス」というものがある。・・・・「倹約」が個人レベルでいかに有効な手段だとはいえ、それを全体に押し広めて皆が「倹約」に走るとどうなるだろう。いうまでもなく世の中全体が不況となり、倹約の効果よりも所得の低下が著しい影響を与えはじめ、結局は全員が貧しくなる。・・・・これが非線形的な現象である。・・・・・要素還元主義には限界があり、したがって部分部分で考えるよりも全体を全体として一挙に考える方途を模索すべきだということを念頭において事柄を処理することである。・・・・
この倹約のパラドックスは合成の誤謬(ごびゅう)とも言います。合成の誤謬は自己決定権と深くかかわっています。自己決定権のベースには個人の独立性という概念が横たわっており、個人が内心の自由に基づいておのれの行動をみずから決定できる、と考えます。
244ページ。・・・・部分の合成の問題である。部分が全体について盲目で、全体がどのように推移しているかについて全く関知していないという状況下にあっては、部分の極大化が集合的に集まると、全体のカタストロフィ(崩壊)が生じるのである。これを「合成の誤謬(ごびゅう)」というが、部分では最善と思われることも集合化すると全体としては最悪になることもある。
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川ノ森千都子さんの記事。
LGBTとは、レズビアン(Lesbian)、ゲイ(Gay)、両性愛(Bisexual)、トランスジェンダー(Transgender)の頭文字の組み合わせ。クエスチョニング(Questioning)、間性(Intersex)の頭文字を加えて、LGBTQ、LGBTI、LGBTIQ、LGBT+などと表されることも。LGBTは「性の多様性」と「性のアイデンティティ」からなる文化を強調。
川ノ森千都子さんには、ためらいもありましたが、勇気をもって記事にしてくれ、控えめに述べています。
誰でも当事者であったり、当事者になりえること。自分のこととして考えられたらいいのではないか。
川ノ森千都子さんが主張したいのは、気の毒な人を救済しようとか、保護しようといった弱き者への恩情主義などではなく、教育の必要性です。
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「小論文を学ぶ」の188ページ~を参照しながら、「オッカムの剃刀」のおさらいをしてみましょう。
オイラ、アメリカ民主党の主張に警鐘を鳴らす意味で、「スケベなおっさんが女装して、女性施設に入れるようになる」危険性があることを暗示しました。すると、たくさんの方からコメントを頂戴しました。みなさんの意見を総括すると、「体も心も女性」である人に対する保護の視点が欠けている、ということになるかと。
高梨さんは言っています。「女湯に入ってこられる側の女性には配慮せんのかよ」って。言うまでもなく、見ただけでは「体は男だけど、心は女よ」なのか「体だけじゃなくて、心も男なんですけど」という人を区別できません。つまり、LGBT個人にとっては目的合理的でも、女性全体にとっては不合理きわまりないってこと。女性に譲歩しろっていうだけでは矛盾は解消しません。
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148ページ〜 160ページ~ 163ページ~ 167ページ~
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アメリカの民主党の勘違いは、一体、どこからくるのでしょう?
トーマス・ジェファーソンらが結成した政党の名が “the Democratic Republican Party(民主共和党)”で、その後、真ん中にある Republican をなくしたのが現在の民主党。
157ページ。20世紀になって大衆社会が本格的に出現するのは周知のとおりである。これにともなって、上の積極的自由を際限なくもとめるものとして20世紀的リベラリズムなるものが誕生する。20世紀的リベラリズムとは、大衆社会におけるデモクラシーすなわちマス・デモクラシー(大衆民主主義)が掲げる徹底した平等性を保証しようとするリベラリズムのことである。リベラル・デモクラシーを可能にしたリベラリズムといっていい。
いま、リベラルという言葉が社会的弱者に寛容であることや人の痛みに敏感であることなどを指す言葉であるかのように思われているのは、こうしたいきさつから生じることである。アメリカの二大政党すなわち共和党(Republican Party)と民主党(Democratic Party)のうち民主党のモットーはリベラリズムであるが、ここにいうリベラルの意味はすぐれて20世紀的な意味であり、平等を限りなく保障しようとしう思想なのである。
民主党の主張は歴史的にいってつねに弱者救済であり社会的平等の実現であった(近年はちょっと共和党よりの政策も打ち出してはいる)が、本来個人間での差異を容認するはずのリベラリズムがそうした平等主義に近づいていったことは、ひるがえって考えてみれば滑稽といえば滑稽な話である。しかし、これが歴史の真実なのである。20世紀のリベラリズムは自由という名とは裏腹に平等を徹底して希求しているのである。
なお、日本にもそういえば「民主党」という政党があったやに思うが、あそこがどんな主義主張を持っているかは、まったくはっきりしないということは、つけ加えておくべきだろうか。・・・・
民主党のモットーであるリベラリズム(自由主義)は、本来、個人間での差異を容認するものでした。ところが、20世紀的な意味のリベラリズム = 社会平等を限りなく保障しようという思想、弱者救済の実現と変わり、自由を制限してしまったというわけなんです。つまり、LGBTへの対応も、平等だけに目を奪われた結果、他者の “承認” の論理ではなく、他者との “無縁” を決め込む論理になってしまいました。だから、摩擦や紛争の解決どころか、人々にアナクロな印象しか与えないのです。
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従来のように、社会的弱者を強者に対比させて、一方が辺縁に押しやられて拘束されたてきたと考え、拙速に動いたのが間違いのもと。異質な者同士が良好な協力関係を築くべきなのに、LGBTという中心を作ってはいけません。いたずらにジェンダーの認識が “差別” 的であることを強調し、性差を認めないとか、異性という意識を抹消すると主張すれば、互いの間に垣根ができ、互いに疑心暗鬼になるだけであり、人心をむやみに不安に陥れてしまいます。
ジェンダーを強く読み込むことは社会的自由を回復させるためには、むしろ逆効果。女性に「ブラジャーも化粧もスカート」も禁じて、男女一律「ズボンをはけ」って言われて、「はい、はい」って従う人なんていませんって。オイラ、彼らのやっている言葉狩りにも懸念を持っています。政権をとったら、国民のすべてが知識や経験に乏しい愚か者であるかのように、父権のような強力な指導力?で、ごり押ししてくる姿勢、そしてそれをチェックしないマスコミの存在に恐怖すら感じます。
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合成の誤謬に至るのは、システム論的理解が欠けているせいです。女性ったら女性、LGBTったらLGBT、黒人っていったらBLM運動というように、互いが分断され、閉ざされた世界の住人として捉えることが問題です。そうではなく、互いに領海侵犯しあう関係にあるという視点が求められているのです。社会的な正当性があるかどうかの視点がないまま、行為する者の意識の問題に矮小化してしまうから、「人に迷惑をかける」のです。そもそも、民主党は自己決定権が、相手の意思を尊重することと、相手に不快な思いを与えないことを前提としてるってことを、わかっていません。
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123ページ~。差異ある者同士が真に和解するためには、ノーマライゼーションの思想が欠かせません。つまり、障害者が健常者とともに、“普通”の生活ができ、仕事、遊び、勉強、買い物がごく自然にできるようにしようという発想。モノへの配慮にもまして、われわれの精神スタンス(意識のノーマライゼーション)大事。つまり、障害者を “普通” と違う人と見るのではなく、ごく自然に、そういうこともありうるという意識をもつこと。
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吉田裕枝ちゃんの記事に、氷山と海の関係を図にしたものが掲載されていました。各個人が合理的な行為を選択したからといって、それが必ずしも社会にとって望ましい結果にならないのは、水面下にある氷山まで含めた氷山の全体を理解しないから。
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166ページで長尾先生は、モナド=個が全体に開かれている様を紹介しています。これはライプニッツが作った空間を説明するために生み出した概念。ギリシア語のモナス(個、単一)に由来します。ライプニッツに言わせれば、無知でいることによって予定調和から逃避して生まれる否定概念が自由でした。でも、ライプニッツの自由は、私が私であるという運命を知ることで、運命の歯車と一体化し、その結果得られるものに他なりません。だから、無知を斥け、私というモナドの存在理由を知る必要があるのです。
デカルトは当時、支配的であったアリストテレス的な学問論に対して、形而上学を幹とし、そこから他の諸学問が派生していくような学問の樹のモデルを提唱。この「ツリー型」の学問のモデルは、西洋の知の伝統的形態を指し示すととドゥルーズは指摘しました。つまり、ひとつの絶対的で同一的なものから他の存在者が派生するという西洋の伝統的な存在論だと。そこで、彼らは、中心も始まりも終わりもなく多方に錯綜するノマド的なリゾーム(地下茎)モデルに発想への転換を提唱します。ノマド(英: nomad)は遊牧民、放浪者。いかにも自由そうですよね。
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えんちゃんは書いています。
私は同性を好きになる気持ちが分からないけど、そうなのね。
私は子どもが産めないけど、何かできることはあるかしら。
※ちなみに同性婚でも子どものいるカップルはいます
他罰的でもなく、自罰的にもならず、合目的的にコミュニケーションしたいものです。
これこそが、私が私であるという運命を知ることで、運命の歯車と一体化して得られるライプニッツの自由ではないでしょうか。そして、そこには多数であることと少数であることの間の落差= 差別意識がありません。ここから「共に生きる仲間として援助を必要とする場面で援助するだけ」って考えが始まる。
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「他者との宥和」には、人々の意識をフラットにすることが不可欠。教育にあっては、公共性を構築してゆく自己統治能力を養うこと、システムの中での自己のあり方を模索する能力をつけさせることが求められているのではないでしょうか。
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PS :オイラが「小論文を学ぶ」を紹介するのはいいのですが、本一冊を丸まんまコピペしやすい状態にするのは、長尾先生の本の売れ行きを脅かすかもしれません。先生の本が少しでも広まればとの思いから、勇み足をしてしまいした。今後は、従来通りの引用にとどめますので、ご了承ください。