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師走

師走は1年の終わりの旧暦の和風名でごわす(笑)。

が趨走(すうそう)するので、師走。趨走とは急いで走り回るの意。では、師走に走るのは誰? 清水匠? ながた範? はたまた、kojuro先輩は付いていませんでした(笑))でしょうか?

とは法師(僧侶)のこと。12月はお経を唱えるのに忙しく馳せ(はせ)走る師馳月(しはせづき)を略して師走となったとか。

他の説もありますよ。年が果てる年果つる月が変化したや、1年の最後に為し終える為果(しは)つ月が変化したなど。

いずれにしても、年末ということで忙しいのは、今も昔も変わりなく、納め終い(しまい)の行事が目白押し。

お坊さんにとっては18日の成道会((じょうどうえ)=お釈迦様が悟りを開いた日)が大事でしょうが、大名好きのオイラは、水天宮の話題に触れない訳にはいきません。

もう過ぎちゃいましたが、12月5日は、安産・子授け・水難除けの神さま水天宮の1年最後の縁日、納めの水天宮。この日は、多くの参拝客で賑わいます。この水天宮、東京日本橋に来るめぇーは、久留米にありました。もちろん、今でも久留米に水天宮、ありますけどね。

赤松氏は、室町幕府で京極氏・一色氏・山名氏と並ぶ四職家の1つ。赤松円心播磨国の守護、そして長男には摂津国、次男には美作国、三男には備前国の守護職が与えられ、赤松氏は合わせて4ヶ国の守護でした。

その後、没落の憂き目を見ますが、円心のひ孫の義祐が摂津国有馬郡の地頭に補せられ、その地に移り住んで有馬氏を称します。そして、子孫は徳川方で功を挙げ、筑後国久留米に21万石を与えられて国持大名に。

有馬家は筑後国を支配していたから、国持大名。正確には、筑後南部の柳河(柳川)には立花家がいたので、本国持ではなく、大身国持。それでも、すごいんですよ。ランキングを付けるなら、およそ260家ある大名の中でも石高ベスト20に入る大身でしたから。

第二代 忠頼は、当時「尼御前大明神」と尊称されていた水天宮に対して、城下に広大な土地を寄進し、社殿を造営。第九代 頼徳が、参勤交代の折に江戸で水天宮を親しくお参りできるよう、芝 赤羽根橋の上屋敷内へ御分霊を勧請(かんじょう)しました。その後、明治4年に青山、翌5年には日本橋蛎殻町へと移転。

上屋敷内に祀られていた水天宮には、塀越しにお賽銭を投げる人が後を絶たないってことで、毎月5日に限り、お屋敷の門を開き、人々のお参りを許しました。それから、有馬家と「情け深い」を掛けて、「なさけありまの水天宮」が流行語となったって訳。

ちなみに、上屋敷は殿さまやその妻子が住まうところ。これに対して、中屋敷は隠居や世継ぎ用。下屋敷は国元からの荷を揚げるため水辺につくられた蔵屋敷

幕府から大名火消しを命ぜられた第八代 頼貴は、三丈(約9m)にも及ぶ日本一の火の見櫓を組みました。それで、有馬温泉水天宮火の見櫓を掛けて「湯も水も火の見も有馬の名が高し」と言うように。

てなわけで、師走水天宮、両者の間には、少なからず、関係が ありま したね。

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