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藩と国

TVの時代劇を観ていて、気になるのが「殿、わが藩主として・・」。

実は、って呼ばれるようになったのは、廃置県が行われた明治になってから。

それまではではなく、と呼んでいました。

えっ、国? 国って

違います。江戸時代の国とは律令制の国である大和国や山城国のような地方行政単位とイコールではありません。

加賀の前田家のように律令制の加賀能登越中の3国を治めていた大名もいましたが、このような家はごくわずか。多くの大名は律令制の国の一部を支配していたにすぎません。だから、律令制の国 66(2州を入れて68) に対して、大名の数はおおよそ 260 もあったのです。

ところで大名って? 石高が5万石なら、大名って呼べる?

残念ながら、5万石あっても前田家の家老であった本多家は、大名とは呼べません。なぜなら、江戸時代、大名は幕府から1万石以上の所領を与えられた者と決められていましたから。くどいようですが、もう一度。幕府からではなく、前田の殿様から5万石を与えられていた本多家は、大名とは呼べないのです。

では、なぜという考え方が出てきたかについて。

それは、織田信長が有力武将の本拠地や出身地と関係なく、国へ封じる分国化を推し進めたことが発端となりました。

そして、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が、全国の大名の所領の再編成を行い、徳川家に対する奉公への見返りとして領地として与えるようにしたからなんです。

ですから、大名が家督を継ぐには幕府の許可がいりますし、幕府から渡される領地安堵状が大名に、領地は将軍家から与えられた、と認識させるのです。

そして、1868年、明治政府は大名の領地をと呼びます。でも、その3年後には廃藩置県によりの呼称も消滅し、府や県にとってかわられることとなりました。

最後に「山乃辺さん」からのつっこみを予想して、予防線を張っておきましょう(笑)。

元禄時代の儒学者・新井白石が、のちの6代将軍・家宣となる徳川綱豊に命じられて大名の系譜を調べて編纂した『藩翰譜(はんかんふ)』にの字が使われていました。

これは大名を藩屏になぞらえたもの。古代中国では天子に封じられた諸侯を藩屏(藩翰)と呼びましたが、これは王室を守護する垣根を意味しました。つまり、には垣根の意味があったのです。

そうです、が私に、についての記事を書きねぇ~って促した訳なんです(笑)。 はい、お粗末でした。

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