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傾奇者(かぶきもの)

昨日のかぶき者 前田利家の記事に対して、ながた師範からコメントを頂きましたので、今日はそれに応える形で記事の構成を考えます。

オイラの旅の楽しみかた、それは、その土地にある歴史物語を歩くこと。

前田利益(とします)の別名を持つ前田慶次(前田慶次郎)は、戦国一の傾奇者(かぶきもの)。その一方で、高い文化的素養を備えた武将でもありました。

傾くの古語 傾く(かぶく)が名詞化してかぶきとなりました。傾奇者(かぶきもの)は風変りな人、異質を好む人のこと。茶道や和歌をたしなむ人=数奇者(すきしゃ) ⇒ もの好きで変わり者が誇張されて、異質常識はずれエキセントリックな人= 傾奇者となったようです。

伝統芸能となった歌舞伎も、斬新な動きや派手な色使いの装いを取り入れたかぶき踊りが、今日に連なったもの。

加賀藩には加賀八家と呼ばれる1万石以上で、家老を務める家が8家ありました。オイラ、金沢に行くと、古地図を頼りに、自分は八家のうちのどの家のお屋敷のあたりを歩いているか、想像しながら歩きます。

5万石の本多家(直江兼続の娘婿で徳川家康の重臣本多正信の二男を祖とします)を筆頭に、3万石超えの長(ちょう)家と横山家。

そして、村井家(利家の妻まつと供に江戸行った村井長頼の子孫)と奥村家が2家。

さらに、長種系と直之系の2つの前田家がありました。

慶次の母は、荒子城主・前田利久と再婚します。ですから、養父の弟で加賀百万石の祖・前田利家は義理ですが、叔父に当たります。

桶狭間の戦いで、織田信長が今川義元に勝利した1560年、養父が前田家の家督を継ぎます。実子のいない養父は、前田の血筋を守るため、自分の弟である安勝の娘を養女とし、慶次をその婿として迎えたのでした。

1569年、信長の命により利家前田家当主となると、その兄であった養父・利久は追放され、慶次も放浪生活を余儀なくされます。しかし、本能寺の変のあった1582年には利家の家臣として5,000石で迎えられました。さらに、嫡男・正虎(前田安太夫)が慶次の養父の旧領 2,000石を引き継ぎます。

ところが、50歳を過ぎた慶次、傾奇者の本領を発揮し、領地を捨てて出奔。京都で上杉景勝家臣の直江兼続と親しくなります。そして、越後から会津120万石に移封された上杉家に仕官し、1,000石の扶持を与えられました。

その後、上杉家は30万石に減封されて米沢城に入りますが、慶次は米沢を離れることなく、1605年に73歳で生涯を終えました。

もし、50歳で傾奇者を卒業していたとしても、嫡男・正虎が子のないまま七尾で没したので、慶次の血が加賀八家に残ることはなかったでしょうね。

金沢でおいしいものを食べたいと思っているあなたのとします=利益じゃなくてりえき=利益になる情報を知りたい方は以下の記事を読んでくださいな。

それではよい一日を   by ながた師範

今日からあなたは金沢通  by オイラ   

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