桃太郎伝説
オイラ、note 毎日投稿の活力源が、何かわかりました。一つは、みなさんから頂くコメントで、次がフォローしている方の記事を引用させて頂くこと。この2つがあれば、毎日投稿も苦にならない。
てなことで、今日は文章の達人あきやまやすこさんのおかやま旅行の記事から。
吉備の中山(標高175m)の北西麓には備中国の一宮である吉備津神社が、そして、北東麓には吉備津彦神社が鎮座。両神社には吉備国を平定したとされる吉備津彦命(きびつひこのみこと)=彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)以下、キビツヒコが祀られています。
神社が鎮座する吉備の中山は、岡山市西部 備前国と備中国の境にあり、古代には瀬戸内海に浮かぶ島・半島でした。港を控えた吉備の中山は米・鉄・塩が集まる豊穣の吉備国の中心地で、古来より神体山として信仰を集めてきました。
吉備津神社と吉備津彦神社には、キビツヒコが鬼を討ったという伝承が残っており、桃太郎伝説のモデルとされています。余談ですが、桃太郎を祀る神社は他にも、宮城県河南町、愛知県犬山市、香川県高松市にあります。
一宮については以下を参考にしてください。
天皇の称号が使われるようになったのは、7世紀後半の第40代天武天皇の時代。古代日本においては、大王(おおきみ)と呼ぶのが習わし。
大王の初代は、言わずと知れた神武。でも、その次の代からは、欠史八代(けっしはちだい)と言って、第2代綏靖(すいぜい)から第9代開化(かいか)までの大王 8人の存在は疑われています。
第10代の崇神(すじん)大王の時(3世紀後半~4世紀初め)、都に疫病がはやり、人心が乱れました。ある日、第7代の大王である孝霊(こうれい)の子で、崇神大王の大叔母にあたる倭倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)には、夫であるオホモノヌシの祟りとのお告げが。
そこで、大王はオホモノヌシを大神(おおみわ)神社に祀り、神酒(みき)を捧げる役に、お告げにあったオホタエヒコを探し出します。すると、疫病は治まりました。大神神社は三輪山をご神体として仰ぎ、拝殿・神門だけで本殿を持たない神社のプロトタイプ。創建時期は紀元前230年頃?とされ、出雲大社と並んで日本で最も古いとされる神社のひとつ。
出雲平定を成し遂げた崇神大王は、四道(しどう)将軍を各地に派遣します。この4人の将軍のうち、西海道に派遣されたのが、お告げを聞いた大叔母の弟のキビツヒコ。でも、よく考えれば、キビツヒコは第7代の大王である孝霊(こうれい)の子ですから、大王に比べて、かなり高齢かと。でも、そこは古代の話ゆえ、ご愛嬌ってことで(笑)。
岡山県総社市には、鬼ノ城と呼ばれる城跡が。鬼ノ城には、地域を荒らす温羅(うら、おんら)が住んでいました。その温羅を討つため、キビツヒコは犬飼健(いぬかいたける)・楽々森彦(ささもりひこ)・留玉臣(とめたまおみ)ら3人の家来とともに鬼ノ城に向かい、成敗します。そして、祟りを鎮めるために温羅の首を封じたのが吉備津神社の釜の下。
「真金(まかね)吹く吉備」と謳われるほど製鉄で吉備国が栄えたのは、渡来人である温羅が製鉄技術をもたらしたから、との説があります。でも、朝鮮半島から鉄を輸入しなくなったのは、吉備で製鉄が始まった5世紀初頭(15代応神~21代雄略の時代の初期)。キビツヒコが鬼を退治した時代とは1世紀ほどズレているように思えるのですが(笑)。
5世紀末に大和朝廷の勢力が伸長しすると、それまで友好関係にあった吉備国を、雄略大王が服属させちゃいます。そして、大化の改新によって吉備国は備前・備中・備後に分割されることに。ですから、上の方に、吉備の中山は備前国と備中国の境にあると書きましたが、古代には吉備国にあったと言うべきなんです。
厳島神社、日光東照宮に次ぐ社殿の建築美で知られる吉備津神社。優美な姿で知られる本殿は入母屋造りの建物を2つ合わせた吉備津造で、拝殿とともに国宝です。
アヤコ14世さんがファインダーをのぞいたら、どんな作品になるのかなぁ。