八日目の蝉 解説編(1)
ただでさえ不人気なのに、記事の文字数が多すぎて読む人の気力を奪うオイラの投稿。
この問題を解消する手段として、考えつきました、「一粒で二度美味しい戦法(⇐ グリコのキャラメルじゃないって)」を。
1.「ある記事」を投稿する。
2.「ある記事」の解説編を投稿する。
これで、1回の投稿における字数を少なくできて、読みやすくなります・・
・・・・・かな(笑)?
それに、この言い訳のせいで、字数も増えてるし・・・・。
ということで、これも、二分割になってしまいました。
前回の記事がこちら。
https://note.com/gashin_syoutan/n/na4ff693b5785
この記事は家族についての問題提起でした。
◇ ◇ ◇ ◇
ドナルド・ウィニコットは書いています。
「子供は誰かと一緒にいる時、一人になることができる」と。
どういうことかと言うと、
安心感を与えてくれる誰か(母親役)が見ていてくれると思うと一人で遊べる ⇄ 一人でいられるためには安心感を与えてくれる誰か(母親役)が不可欠。
客観的には一人ではないのですが、子供の気分としては一人でいるってこと。
安心感を与えてくれる誰か(母親役)が内面化される = 視線が抽象化されてしまえば、安心感を与えてくれる誰か(母親役)がいない時でも、一人になれるようになれる、ということ。
前回の記事で
こう指摘したのは、福島瑞穂さんの家庭は「安心感を与えてくれる誰か(母親役)がいない = 内面化・抽象化に失敗した家庭だったから、引きこもってしまいたくなった」と推測されたものですから。
◇ ◇ ◇ ◇
誰も「発覚しなければ法を破ってでも自分の利益を実現しようとする社会が善い社会だ」と言わないはず。
言うまでもなく、自由に報道する権利を担保する責任と義務を果たさない報道機関による切り取り・捏造報道は善い社会の対極にありますよね。
社会のメンバーであるからには、他人や社会全体のことに配慮して行動すべきです。
ウソはダメ、人殺しはダメ、約束を破っちゃダメ・・・・。
でも、電車の中で席を譲ることなんか、成文化される必要はないのです。
ところが、義務がないから何もしなくてよいとか、権利として認められているから何をしてもよいと考える人が増えてきています。
理由はそういう子供の拡大再生産に励んできた戦後教育の成果(笑)。
「情けは他人の為ならず」を伝えてこなかったから、優先席が作られることになり、空いていても若者は座れなくなったというジレンマに陥るのです。
今、権利や自由は「どのように」行使されてもよいのではなく、「正しく」行使されるべき、と教える道徳教育が求められています。
◇ ◇ ◇ ◇
譲り合いをよしとしない人は、自分が集団から独立している強い人だからなのでしょうか?
1970年代のアメリカでは、自己決定の原理の下、自律した強い個人であることが求められていました。
結果、個人は孤立化し、不安や孤独感からカウンセリングに頼る人が増えました。
原子論的発想では、個人にとって出入りが自由である限りにおいて集団は価値を有するということになります。
つまり、集団より個人が優先するということ。
社会契約論が「国家が個人の契約により成立している」と仮想しているのも原子論的発想です。
では、個人が否応なく所属してしまう集団は個人より本来的価値がないのでしょうか?
◇ ◇ ◇ ◇
自分の伴侶や友人と、たまたま電車の隣りの席に座った人、あなたにとって大切なのはどっち?
この他者とあの他者で扱いの優先順位が違い、あの他者より、関係性が深いこの他者に優先的な責任を負うのが当たり前ですよね。
オリンピックで自国の選手を応援するのも、選手が国旗を背負って頑張るのも、歴史や文化・伝統や歴史を共有することで生じるつながりを大切にしているから。
要するに、自分で選んだわけではない伝統・文化や歴史を共有するつながりは否応なく、オイラたちの個人的アイデンティティと結びついているってこと。
社会的アイデンティティとは、自分がどのような社会集団に所属しているのかという自己認識のことであり、性別、世代、民族、人種、障害、職業、社会経済的地位など、 自分を特定のグループのメンバーとして分類するためのラベル。
噛み砕いて言えば、社会的アイデンティティは、共同体の中でのアイデンティティであり、共同体に基礎を置く物語の中での役割を引き受けるということ。
アラスデア・マッキンタイアは「『私はどうすればよいか?』という問いに答えられるのは、それに先立つ『私はどの物語の中に役割をみつけられるか?』という問いに答えられる場合だけである」と言いました。
要するに、人は物語の中で役割を持ち、物語にコミットし、物語に愛着を持ち、物語が連帯を生むといういうことなのです。
◇ ◇ ◇ ◇
愛着と言えば、3歳児神話ですね。
平成10年度厚生白書にも「三歳児神話には合理的な根拠は認められない」とありますが、オイラの知る限りにおいて「母性」や「幼児期における母親の大切さ」を否定する科学的根拠は示されていません。
「母性は神話である」
「三歳児神話は幻想である」
という考え方は、フェミニズムによる働けイデオロギーのためのスローガン。
「子供を保育所や児童施設にあずけることは、子供に、特に深刻で恒久的な悪い影響をもたらす(WHO精神衛生専門委員会1951)」は、ジョン・ボウルビィの主張を反映していません。
ボウルビィは、「実母」か「否か」という二項対立を主張していませんし、「子どもの世話は、24時間ひねもすただ一人の人物によってなされることが最良である」とも言っていません。
また、「子供の正しい養育は、母親が職業をもたない場合にのみ可能である」と主張してなどいないのです。
「欧米では、すぐにボウルビィ理論の修正への研究が進み、母親でなくても、親密な少数の養育者との間に愛着が形成されていることが大切である、との認識だ」と松橋恵子さんは言っています。
◇ ◇ ◇ ◇
マイケル・ラターの『母親剥奪理論の功罪』(すでに絶版)は、ボウルビィへの誤解を解こうとしました。
ボウルビィは「母子間の結びつきの重要性を指摘しながらも、同時に、ひとりの母親代理者の子どもへのアタッチメントも、重要な意義を持ちうるもの」とみなしていたのです。
フェミニストが主張するような「大人の関わりが入れ替わることが、即、悪いとは言えない」とはなっていません。
「ときおり、乳幼児を母親以外の誰かに世話されることに慣れさせることは優れた保育方法である」と言っているのです。
子供たちは数人の養育者に育てられても、その各々の人物と安定した関係を保ち、適切な養育を受けている限りは、障害を受けることはない。
充分な研究がなされていないが、乳児のうちから母親が働きに出た場合については、母親像が常に変化し、そのために子どもがその中の誰とも安定した関係を確立する機会を持てない場合は、障害を受けやすいであろう。
乳児期に施設に入り、少なくとも3歳までそこで育てられた子供たちは、この期間を家庭で過ごした子供たちよりボンド(絆)形成が少なく、いくつかの研究が、前者が特に結果の良くないグループであることを示している。
ただし、両親が不和であるような好ましくない家庭環境よりは、施設の方がいいが、施設にも質の悪いものがある、という。
つまり、託児所の質が問題だと言っているのであり、すべての施設が家庭より悪いなどと一言も言ってません。
要するに、3歳児神話を正しく理解するなら、養育態度が優れていて、しかも同じ人物たちによって持続的に与えられたケアであるならば、子供に悪い影響はない、ということなんです。
◇ ◇ ◇ ◇
ボウルビィが何を言ったかを別にしても、母親の愛情やアタッチメント(触れ合い)の大切さ、乳幼児期の母親の関わりの大切さを知らない人は少数のはずです。
だが、ちょっと待ってほしい。
朝日新聞の1998年10月8日の朝刊の「少子化がとまらない(下)」:
・・・・「神話」の見直しがあちこちで始まっている。「保育園の在園期間の長さは発達にむしろプラス」(90年網野武博・上智大学教授)「母親の就労と子どもの発達は無関係」(91年、精神科医・原田正文さん)と調査が次々と報告され、今年、厚生白書は「少なくとも、合理的な根拠は認められない」と神話を否定した。・・・
となっています。
だが、ちょっと待ってほしい。
原田正文さんが述べているのは「無関係」ではなく、「乳幼児期までに表面化する発達に関してはという限定付ではあるが」として母親の就労と子どもの発達には相関が認められなかったという程度の表現でした。
その後に執筆した「育児不安を超えて」では、『月齢四ヶ月までの乳児の身体的・精神的発達と母親の具体的関わりとの極めて強い相関に驚きを感じ、親としてのかかわりに身の引き締まる想いがした。』と述べているのです。
朝日新聞もフェミニズムも怖いわぁ〜。