皆さん、こんにちわ。
臥龍桜です。
まず、最初にスキやフォローして頂いた皆さん、ありがとうございますm(_ _)m
率直に嬉しいです😃
でわ
前回の続き
『竹内巨麿さんとは?』
今回、皆さんにお話しする事は、文章として
一度まとめたものです。
しかし、今まで公の場でお話しするのは
『初公開!』になります。
少し文章が堅苦しい所もありますが
ご了承ください。
では、本題に入ります。
竹内文書とは、世間的には
『偽書』として扱われています。
竹内文書自体は、オカルト界では有名ですが
竹内巨麿さん自体の詳細は余り有名ではありません。
なので、今回は竹内巨麿さんのざっくりとした
経緯などをお話ししたいと想います。
竹内文書は竹内巨麿さんが世の中に
公開して広まった本です。
竹内巨麿(たけうちきよまろ)さんが竹内家に
養子になり、のちに巨麿と名前を変え竹内巨麿になりました。
竹内巨麿さんの出生などは色々と諸説が
ありどれが正しいのかは未だに分かりません。
竹内巨麿さんの出来事を少しお話します。
竹内巨麿さんは
* 富山県で生まれ。幼少のとき、母が暴漢に襲われ自殺、そのあだ討ちのために修行を思い立った。
* 1893年(明治26年)、祖父から遺言で「世の中が平和になったときに公開せよ」として譲り受けた宝物・文献を携えて上京。
宝物・文献は知人に預けて、東京御嶽教本部に入信。鞍馬山とさらに奥にある大悲山で千日間にわたり修行した。そこで、「大己貴尊」(おおなむちのみこと)をはじめとする神霊や修行者から神法道術や神代文字を学ぶ。
* 1899年(明治32年)、宝物・文献を持って、茨城県北茨城市磯原に引っ越す。そこで治病祈祷などで人心をつかみながら信者を獲得。宝物・文献を一部の人に公表。
* 1910年(明治43年)秋、神代(神武天皇以前)の時代から伝わる真の歴史書であるとして「竹内文書」を一部に公表。この文献・神宝類を「経典」として皇祖皇太神宮を復興、天津教の開祖となる。
* 1930年(昭和5年)- 1944年(昭和19年)、「天津教弾圧事件」
* 1945年(昭和20年)3月、押収された文献や「宝物」は、無罪判決後も巨麿には返還されず、東京の司法省に保管されていたが東京大空襲でほとんどが消失。
* 1965年(昭和40年)1月27日、他界。
竹内巨麿さんの出来事はざっとですが
この様な感じです。
次に竹内文書の流れを見てみましょう。
1928年(昭和3年)に竹内巨麿が竹内文書を公に公開しました。
その当時の竹内文書は
今伝わっている様な内容ではありませんでした。
これが現在の形の様な内容に近くなるのは
竹内文書の出版の版が新しくなる度に、
竹内文書に加筆しました。
特に戦後に出版された(神代の万国史)は
大量に加筆されていました。
神代の万国史は名前こそ、竹内文書では
ありませんが。内容は竹内文書の資料集の様な物だと想っていただければ良いと想います。
少し余談を挟みます。
竹内文書には、もう1人重要人物がいます。
それは、酒井勝軍(さかい かつとき)さんです。
酒井勝軍さんは、簡単に言うと
日本の軍人さんで、陸軍からの依頼で
エジプト ピラミッドの調査やユダヤの研究をしていた人です。日ユ同祖論者の1人であります。
日本でも、広島の葦嶽山(あしたけやま)を
ピラミッドと断定したり、青森県のキリストの墓付近でも、大石神ピラミッドを発見する。
この様に、酒井勝軍さんは日本の軍人で
また、特殊機関に属していた事から世間からしてみても、酒井勝軍さんの発言は信憑性が高いものと捉えられていたと想います。
その酒井勝軍さんは竹内文書に興味を示し
直接、竹内巨麿さんに逢いに行き
竹内文書の内容を教えてもらいました。
昭和10年、竹内巨麿さんと一緒に
青森県戸来村(へらいむら)
現在は、新郷村(しんごうむら)に行き
ここにイエスキリストは墓があるはずだ
竹内文書に書いてあると言い。
探し、墓らしきものを見つけました。
同じく昭和10年に
竹内文書を新たに版を新しくした時に
青森県のキリストの墓のお話を加筆したと想われます。
墓守りと言われている沢口家の人も
竹内巨麿さん達が来るまでは、その様な話は
一切無かったとお話されている様です。
この様な話から
青森県のキリストの墓というのは竹内巨麿さん達により作られたお話かもしれません。
作られたと言うよりも
竹内文書に書いてある墓を探し
墓らしきものを見つけ。
キリストの墓にしたが正しいかもしれませんね。
ですが。
ただ単に『キリストの墓にした』では終わらない
他の話があるのも事実です。
今回は以上です。
長くなりましたが、分かりましたでしょうか?
次回も長くなります(笑)
次回
『あなたの瞳は?』
で
お会いしましょう。
臥龍桜でした。
ありがとうございます。