どうしてこんなかな遣ひ

もともと、旧かな旧漢字の書物を読むのは苦手だつた。
単純に読みづらかつたからだ。
明治以降の小説なども読んだものはすべて新かな新漢字で読んだ。
それでいいと思つてゐた。
古文の授業もそんなに好きではなかつたやうに思ふ。
漢文だけは好きだつたし、「身をえうなきものに思ひなして」なんてのにはぐつときたりもしたけれど。

きつかけは、E.H.カーの『歴史とは何か』だつた。
授業の関係で読む必要があつて、しかし新かな新漢字の本は品切れ中だつた。
図書館にあつたのは古い翻訳で、旧かな旧漢字で書かれたものだつた。
幸ひ、まだ借りる人はゐない。
だが、読めなかつた。
旧かな旧漢字だし、文章も読みづらかつた。

こんなことでいいのだらうか。
そのとき、なにとはなしさう思つた。
これまでは旧かな旧漢字の本は避けてきたし、避けてくることもできた。
でももしかしたらまた同じやうなことがあるかもしれない。
旧かな旧漢字で書かれたものしかないといふやうなことが。
文章も古めかしくて読みづらいやうなものが。
たとへば国際連盟規約とかさ。

でも、困るのは学校に通つてゐる間だけかもしれない。
社会に出れば、もう旧かな旧漢字で書かれた文章なんて読む必要は……あー、もしかしたら民法とか刑法とかあるかもしれないけれども……おそらくないだらう。

さう思ひつつも、やはり読めた方がいいだらうと考へた。
では読めるやうになるにはどうしたらいいのか。
自分で書いてみるのがいいのではないか。
さうしたら読む方も読めるやうになるかもしれない。

そんなわけでかういふかな遣ひをするやうになつた。
もう新かなを書いてゐたころよりも長いことかうして書いてゐる。
はじめたばかりのころは、手で書くときは書けるものは旧漢字で書いてゐた。
漢文が好きだつたのかここで生きてきたともいへる。
変換するのがめんどくさいので、かうして打つ時は漢字は新漢字だ。
一時はsedを使つたりもしてゐたけれど、それはなんか違ふ気がした。
中途半端だけれど、まあ、それも自分らしいかなと思つてゐる。

いつごろからか、読む方も平気になつてきた。
文章が読みづらいのはどうしやうもなかつたけれど、見た目に惑はされなくなつた分、とつつきやすくなつたやうに感じた。

当初の目的は果たせた。
もうやめてもいい。
さう思つて、Twitterでは一時新かなに戻したこともある。
でももうなんか習ひ性になつてゐるやうな気もする。
それでまたこんなかな遣ひでつぶやいてゐる。
こんなだからまた新かなに戻すこともあるかもしれない。
その程度の気持ちでかういふかな遣ひをしてゐる。

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