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四畳半神話体系

緊急事態宣言下、いつもと少し違うGWが終わり、いつもと少し違ったいつもの日常が返ってきたことだろう。

そんななか、就活を終えるかという贅沢な悩みに悶々とし続け、挙句には考えることを避け続けている大学生が私である。

今期はオンデマンド授業2つしかとっていなく、大学にも通う必要がなく、就活で多忙を極める彼女とも再び連絡が途絶え、友達と会ったのもGWで一回だけ、アニメと意味のない読書と大谷選手が打てど先発が試合をつくれど、毎試合、中継ぎ陣が崩壊していくというエンジェルスの試合を見るルーティーンに耽るというほぼ模範的な自粛生活を送っている。

まあそんなことはどうでもいいので本題に入りましょう。

毎回この導入がどうでもいいのだけれど、日々の話を話す相手が家族だけというのも悲しいものなのでどうか許してほしいのだ。

とにかくブログは毎日書くことが大事なので多少、内容に粗があってもいいのかもしれない。いや、良くはない。

今度こそ、本題に入ろう。

今回は、長らく観ようと思っていて、To Watch Listに入れておきながらも、なかなか観る機会を逃していた「四畳半神話体系」を見た。

「よじょうはん」なのか「しじょうはん」なのかは定かではないがどうでもいい。(よじょうはんですね)

四畳半至上主義者という言葉は、四畳の「しじょう」と至上の「しじょう」を掛け合わせた言葉遊びなのかもしれないというのは少し行き過ぎたミスリードか。

それはさておき、この作品はこれから大学生になる、または、バラ色のキャンパスライフを夢見て受験戦争を駆け抜けながらも、理想とはかけ離れた大学生活をリアルタイムで送っている大学生が最も見るべきアニメだと私は思う。

勿論、学生だけではなく、大人が見ても何かを得られる作品であっただろう。

簡単に言うと、主人公の「私」はバラ色のキャンパスライフを求めて、各話(実はパラレルワールドになっている)で多種多様なサークルに入会するのだが、何回やり直しても(正確には意図してやり直しているわけではない)、「私」の夢見た、美女に囲まれるようなハッピーエンドにはなかなか手が届かないのだった。

そして、どの世界線でも「私」に付きまとってくる小津という奇妙な男や同じ荘の住民である「師匠」と呼ばれる、これまた奇妙なナス顔の男など、「私」を取り巻く人間関係も作品の不思議でありながらどこか引き込まれるような世界観を醸し出している。

さて作品の考察に入る。

(この作文はこれから作品を見る人も、特筆して興味がない人も、それからすでに作品を視聴した人にも向けたものなので、是非、最後まで付き合っていただけたら幸いだ)

「これが小津とのファーストコンタクトであり、ワーストコンタクトであった。」という小津との出会いを形容したセリフや「無料でただならぬ妖気を垂れ流しにしている」占い師など、繰り返しどの「四畳半世界」で出てきてもなぜか飽きがこない滑稽な表現もいいアクセントになっている。

しかも、この繰り返し視聴者に植え付けた、小津や占い師のイメージが最終話での伏線回収で強烈なインパクトを引き起こしている。

例えば、占い師の「目の前にぶら下がっている好機を逃すな」という繰り返しのセリフが、文字通り、四畳半の電灯からぶら下がっているモチグマのことで(モチグマの伏線も繰り返し出てきた)、しかもそれが明石さんという、「私」が恋をしている女性との赤い糸に繋がる「好機」であったのだ。

無論、モチグマンが揃うことで恋が成就するというのは容易に予想の範囲内だが、パラレルワールドでほぼ同じセリフが繰り返されるからこそ、伏線回収の感動が広がるのだ。

パラレルワールドは、ハルヒの某エンドレスなんちゃら程、極端で伝説にならない限り、視聴者を飽きさせてしまう可能性のある高リスクの手法であるだろう。

実際、このアニメでも、毎回、「私」が違う四畳半世界で違うサークルに入って「バッドエンド」が待っているというお決まりのルーティンが11話まで連続する。

しかし、この展開が作品の伝えたいメッセージをガツンッと伝えるためのジャブになっているのが秀逸である。というのも、このアニメが伝えたいメッセージ、つまり、「目の前にない妄想の世界に期待を含ませるのではなく、足元にある豊潤な世界を見つめ直してみよう/そうでない限り、結局、何度違う選択をしようとも望む満足は得られないだろう」という(私の勝手な推測に基づいた)作品のメッセージ自体にかなり直接的に関わりがあるからこそ、スッと、エンドレス四畳半が体に入ってきたのだろう。

さらに私はてっきり「私」と明石さんが毎回それなりに深い仲にあるのだと考えていたが実はそういうわけではないというのが予想外だった。

たしかに古本市のバイト先で出会った(他の出会い方もあったが)女性という関係性で、それ以上でも以下でもなく、特に二人で進んで会うような場面もなかったように思える。

「私」は求めていたバラ色のキャンパスライフを送るために四苦八苦しながら、他の女性にうつつを抜かしていたが、実は現実はもっと単純で、本当に求めていた恋は四畳半の、あの空間の中にあったのだ。

幸せの定義とは何だろうか。

平凡だけれども順調にいけば来年は社会人になる一介の大学4年生として、将来や人生の幸せ、または、そのための選択に思慮を深めていたこの頃だった。

しかし、やはりどの選択肢も正解かなんて選択の段階ではわからない。
しかもそれが遠い未来であればある程、想像(創造)であればある程、そして、正解がある問いでなければないほど、どれを取れば幸せになれるかなんてわからない。

そもそも幸せとは何かわかっている人なんてなかなかいやしないし、幸せは結局はその人の主観であるはずだ。

我々はいまない現実や夢に思いをはせることばかりで、目の前にある「好機」を実は逃してしまっているのかもしれない。(特にSNS等を始め、様々な価値観や批判に触れられる現代では。)

どの選択肢を選んでもきっと少なからず後悔はするのだ。
大事なのは、選択することそれ自体ではなく、
自分の純粋な願望を見つめ直し、
その選んだ選択のなかでの好機や幸せを逃さないことなのかもしれない。

究極的に言うと、広がるダイバーシティー(この言葉をさも絶対的に言う人がいるのでこの言葉は嫌いなのだが)のなかで逆説的にシンプルに生きるコトが大事なのかもしれない。

今日はここまで。


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