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チクチク

 ヴァージニア・ウルフ『灯台へ』の続きを読みに、近所のカフェに行く。家で読んだって良いのだけれど、昨日も家に篭っていたので、少しは人間のなかに混ざったほうが良いのでは、と思うのだ。そのカフェは、曜日によってバイトさんが違うので、私にとって「当たり」の日と「はずれ」の日がある。今日はどうだろうか。
 ちょっと長居させてもらうつもりなので、席選びは慎重になる。場所はここが良いけれど、4人掛けだと混んできたときに申し訳なさが勝つんだよなぁ…等と考えながら店内をウロウロしてしまう。女性の店員さんが「広い席もございますよ〜」と声を掛けてくれて、結局2人掛けの席に座りながらも、今日は「当たり」かなと考える。
 アイスコーヒーを持ってきてくれたバイトさんは若い男性で、言葉尻が軽い。しかしこなれていて、カフェのような場所では重宝されるだろうな、と思う。私はマスクをしたまま、彼が去るのを待った。
 華やかな身なり(化粧もアクセサリーもバッチリ)で、お喋りに興じている5人組のお婆様たちが「ホットコーヒーはまだかしら」と催促する。女性の店員さんが「今作ってますよ〜 豆を挽くところからやるので、美味しいですよ〜」と宥める。また去り際に「孫もこんな店で働いてるのよ、だから気になっちゃって」と店長らしき男性のネクタイを直す。「ありがとうございます」とは言っているが、その声色に「迷惑」が滲み出ている。
 店内が静かになり、客も私を含めて3人となった。すると店長とバイトさんの雑談が始まる。「ロシアはいま儲かってるんだよ」「まじっすか」「○○ちゃんとはどうなってんの」「なんもないっすよ、まじで〜」「☆☆大学の子は、知識はあるけど、世間知らずなんだよ」「あ〜」
 私は☆☆大学に在学中で、たしかに今、あなた方のサービスに支えてもらいながら本を読んでいる。『ダロウェイ夫人』(光文社古典新訳文庫、2010)の解説では、ヴァージニアが当時の女性としては珍しいほどの教育を受けられたことについて触れられている。それは彼女が文化資本の多い家庭の生まれであることに由来している。そして作品の中にも、知識人として社会問題に関心を寄せる一方で、下層階級に対する優越感と恐怖が滲み出ているという指摘がある。私は店長さんがどんな風に生きてきたのかを知らないし、その呟きも「☆☆大学の子をバイトとして雇ってみたが、思うような働きをしてくれなかった」という単なる愚痴として聞き流すべきものなのだと思う。私たちにはヴァージニアの時代ほどに明確な階級の区別は無い。しかし、あからさまな学歴社会には、こんな憎悪がゴロゴロと転がっている。☆☆大学の中にも様々な経済状況の人がいて、裕福な家庭に育った人よりも、そうでない人のほうが偉くて、エネルギッシュだというプレッシャーもある。私はとても長い間、大学に所属している割に、そこが心地よい場所とは考えられない。来る日もくる日も知識の獲得(と形成)に勤しんでいる私の生は、どんな風に表現されれば良いのだろうか。


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