実家にある荷物の整理をしていた。奥の方にしまい込んでいた日記を燃やした。 小学校2年生の時に読んだ「ハリーポッターと秘密の部屋」で、日記というものの概念を知って以来、今日に至るまでずっと日記を書き続けている。そろそろ20年目を迎えるということになる。 当時7歳だった私が日記を書いてみようと思い、手に取ったノートは、数ヶ月前にフィリピンで購入した飛行機の柄のノートだった。 「どうしてお父さんは私のことがきらいなんだろう」 問いから始まる自分の日記。 「私」って漢字書けた
高校生の頃の私、 逃げないで居てくれてありがとう。 音楽を好きな気持ちを、 誰よりも大切にしてくれてありがとう。 景色のなかのときめきを、 ささやかな心の動きを見ていてくれてありがとう。 言葉の深みを、 めんどくさがるのではなく、 味わい咀嚼してくれてありがとう。 全部の時間を、 今まさに取り戻しているように感じる。 私の人生は、豊かだ。 苦しい思いはしないに越したことない。 そこを回避するのではなく、 取り組んできた私に感謝したい。 今の私は、やっぱり今が良
来月から、やっていけるだろうか。 考えただけで、胃がずしんと重くなる。 久しぶりに、 自ら理不尽の中に身を置くことになる。 生きてるだけで、どうせ理不尽には いつも巻き込まれてるのだけど。 (そう感じずに生きてる人は、 まさにその理不尽を押しつける側だ。) (あるいは、私だって理不尽な目にあってるもん、というならば、その熱量は理不尽に対して向けられて欲しい。) あの理不尽と比べたら、今は大したことない。 何回言い聞かせてきただろう。 8年振りくらいだろうか。 あ
満たされないと、 自分を満たすために、 人は他者を批評する。 それは無意識に行われる。 「自分はそんなことしていない」 と心を過ぎるその瞬間、 すでにそれは無意識に行われている。 自分の満たされない心に自覚があると、 目は自分にしか向かない。 未来を描き、過去を振り返り、 現在地を見定める。 Zeit ist Geld. 自分が醜いと思うものを見るその時間も、 貴重な人生を刻々と浪費している。 醜いものをみると、 思考や感性も引き摺られる。 美しい人は、醜いも
随分と遠く、小さく、薄くなってしまった。 捩れ、擦れ、弱くなった糸のよう。 私の記憶は蓋されていた。 その人は、よく人を見ていた。 気遣いのできる人だった。 味覚や嗅覚が鋭くて、 お料理が上手な人だった。 思考することが好きで、 いかに鮮やかに誰かの思考を裏切るか、 という挑戦が好きな人だった。 今度こそさようなら。 私の記憶から、いよいよ消えてゆく君へ。 どうか君が君のままで、また輝けますように。 その道のりが、 どうか少しでも穏やかでありますように。 私
あの日は、小雨が降っていた。 夜行バスは新宿に着くときいて、 新宿へ迎えに行く、と言ったら、 私のお家の最寄り駅まで行く、と返事が来た。 少しでもはやく会いたい気持ちがあったから、 残念に思った一方で、まだ慣れない東京での待ち合わせだから、迷うはずのない最寄り駅ならば、と安心した。 何週間も前から悩んでいた服。私なんかが着飾ったところで、と卑屈な気持ちになりながら、それでも少しでも可愛いって思ってもらいたくて。待ち合わせの時間までの間に部屋の掃除をしながら、鏡の前を通る
この電車に乗ったのは、随分と久しぶりだ。 役者として監督に見初められて、 毎日必死で稽古に通った道。 努力することを、肯定してくれた道。 私は、笑わない。 それを、不幸と言う人も居るのかもしれない。 私にとって、これは大切にしたいこと。 その人の言葉。 その人の肌の色。 その人の思想。 生まれつきの病気たち。 それすらその人の個性だ。 否定されるものでも、 貶されるものでも、 笑われるものでもあってはならない。 かわいそう、と、 他人に言われるものであ
新しい期限が決まった。 私は私に約束をする。 その日が来たら、判断をしよう。 私は私のことが好きか。 私は私にとっての幸せを定義できてきるか。 その幸せに身を置く意思があるか。 昨年の個展で、 「死は自分のコントロールの外側にある」 と言ったけれど。 そんなことはない。 終わりは自分で決められる。 改めて、自分に向けて。 綺麗な私で居よう。
本当は、昨日のうちにプレゼン資料を作り終えて、今日の午前中はプレゼンのイメージを体に刷り込むだけにしたかった。 十分そうできたはずだったんだけど、前職の同僚から、「そろそろ頑張り過ぎてる頃じゃない?」って連絡がきて、我に返った。 時刻は22:30過ぎ。 今から作業をしたら、2時くらいまでかかるだろう。 その覚悟を決めていたけど、強い意志を持ってPCを閉じた。 結果として、 今日の13時からのプレゼンは 私にとっては30点にも満たなかったけれど、評価とし
「今が一番幸せ」 そう言葉にしてみたら、すごく安心した。 過去を振り返って、 「あの頃の方がよかった」 なんて思うことは1つもない。 なんだかずっと、 私は幸せになってはいけないと思っていた。 今も、そういう声が聞こえる。 多分、幸せになることは、 何かを無視することだ。 私は無視しない。 でも、その先で幸せになる。 無視した上で成立する幸せは、 私にとって幸せとは呼べない。 明日、いよいよ蹴り出す。 世界を変えてやる。
朝。 アラームよりもはやく起きて、 ベッドから出たくないなぁと ぼんやりしていた。 アラームが鳴るのを身構えていたら、 電話が掛かってきた。 随分と久しぶりに見た名前だった。 その人は、 泣きながら「死にたい」と訴えた。 私には話を聞くことしかできなかった。 7:30。 私が身支度を終えているはずの時間に、 ようやく彼女は落ち着いた。 私のおかげでもう少し生きようと思えた、 と彼女は言って通話を切った。 12:03。 少し早めのお昼休みで、 パスタを作り終える頃
2つの当たり前がなくなって、 初めての朝を迎えた。 心地よいスリッパの音が、 リビングの中を歩いて整えていく音。 コーヒーと、特有のバターの香りと、 お湯を沸かした湿度。 そういう当たり前がなくなった朝だった。 外は、湿った土のにおい。 樹々は葉を増やして、 随分とおしゃべりになった。 季節は移ろうけれど、 この賑わいを私は知っている。 また夏が来る。 文化はそこに属する人によって生まれる。 文化が発生した理由を紐解くと、 そこに社会があることが証明できる。
春が終わってしまった。 いつまでも留まっていたかった。 春が終わってしまった。 昨年の今頃は、 実家の庭で咲き誇る木香薔薇をみて、 その木陰で涼んでいた愛犬の姿を そっと探していた。 祖父の命日の準備をしていた。 役割のない連休は久しぶりだ。 大手を振って、何もしない。 何もしない。
「進路希望なんて… 何もわからないし、まだ決められないよ…」 こういう気持ちを抱くような学生時代に、 なんとなく覚えがある人も多いのではないだろうか。 最近どうにも、 身の回りに「わからない」ことを理由に 動かないオトナが多くて、 もやもやしたので書き出してみる。 *** もし、これを読んでいるあなたが 今まさに学生で、 「進路希望を出しなさい!」 と迫られて居るならば。 まず言いたい。 あなたは今、 「何もわからないよ…」 という状態でもいいと思う。
明日も明後日も、絶対やばい。 全然仕事間に合わない。 って、勝手に焦っていたのだけど。 私が鬱病になったときの上司から、 唯一学んだこと。 「これ、なんとかなってくれないかなぁ」 口に出してみれば良いのだと言われた。 そしたらまわりのリアクションで、 やばいのかやばくないのかわかるから。 そしてもし「やばい!」ってなったとき、 健全な組織なら、 「じゃあこうしようよ!」って 誰かのの脳みそを借りられるはずだと。 当時は、 「やばいって言っても 『ふーん?』しか
人の声と合わせるのが久しぶり過ぎて。 まだ心臓がばくばくしてる。 生きていてよかったこと。 愛犬に出会えたこと。 歌うことが好きな私であること。 歌うことは、 かつて私の生きる理由のひとつだった。 愛犬もその理由だったけれど、 亡くなってしまった。 生きる理由って、 探さなきゃいけないのだろうか。 だいたいみんな産まれ持ってるのだし。 そうじゃなかった欠陥品というだけなのだし。 ゴミはゴミ箱へ。 おやすみなさい。