0杯目 貴方の小説に合う珈琲を
いらっしゃい。お好きな席へどうぞ。
……
この喫茶店でございますか?えぇ、なかなかの老舗だとは思いますよ。
私ですか?私は先代から受け継いだものですから自分が何代目でどれくらい続いているのか知らないもので。
ほら。あそこの窓際にかかってる振り子時計あるでしょう。あの振り子時計は先代のものなんですよ。しかし、少し古くて2分と32秒ズレているんですよ。
私もそう思ったんですけども、なんせ古いもので。長い付き合いの時計屋の職人さんでも直せないって言われましてね。
あぁ、あちらは何代前かは確かではないんですがああいった民族の仮面の収集に凝っている方がいらっしゃったようで。
まぁ、そうですよね。それでもこういった風に代々のマスターの趣味が混ざっている。それがこの喫茶店の趣になっているものですから、私の代で変えるわけにはいかないんですよ。
私の趣味ですか?それは今お客様の手元にある……
いえ、コーヒーカップではありません。珈琲そのものです。
そうなんですよ。カップは代々贔屓にしてもらっている焼き物屋さんから仕入れているんですが……
はい、それもいつかのマスターの趣味でしょう。しかし、喫茶店なのにも関わらず珈琲に凝ったマスターはいなかったようで。
えぇ、私がお客様の気持ちに合わせて珈琲を選んでご提供するんです。ですから、メニューには『珈琲』としか書いてないんです。
そうですね。お客様は初めてですからご存知ないかと思いますが、ここは読書家の方々からちょっとした評判のある喫茶店なんです。
えぇ、『読書家』の方々です。お客様が読まれる小説に合わせて珈琲を提供させていただくのです。
そんなことはありませんよ。あくまで私の推測の域を抜けないのでたまに間違っていたりしますよ。
ハッピーエンドの恋愛小説を読んでいるので想い人がいるのかと思えば失恋されていたり、シリアルキラーの出てくるものを読んでいるので何か追い詰められているのかと思えば立ち上げた会社が大成功を収められていたり。
そうですね。まだ修行中の身でございます。
構いませんよ。どんな人にも入ってくつろいでいただける、それが何より喫茶店の良さですから。もしよろしければ何か本をお貸ししましょうか?
わかりました。少々お待ち下さい。
……
はい。あぁ、もう読み終えましたか。面白かったでしょう?
良かったです。そうですね、貴方が少しお疲れのように見えましたので。少し優しい小説と温かい珈琲を、と思いまして。
えぇ、ぜひ。またいらしてください。
ーー
からん、からん……
いらっしゃい。お好きな席へ……
えぇ、そうです。今日読むものを教えていただいても?
かしこまりました。それでは、すぐにご提供いたします。
貴方の小説に合う珈琲を。
〈続〉