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移住4年目。理想とも想像ともまったく違う、でもちょっぴり幸せな暮らし。

“ちょっぴり幸せ”

というフレーズが
最近のお気に入りだ。

そりゃあ
大手を振って幸せ!って言えたほうが
人間として良いのかもしれないけれど…

語弊があったらスミマセン。

幸福を追究(追求?)することって
そこまで必要かい?
というのが
この文章のテーマです。

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noteにもいろいろ書いてきたけれど

わたしは30歳のときに
地元の奈良から愛媛へ移住した。

当初は教育と地域にかかわる
自分にピッタリのお仕事と
新しい環境、あたたかくてオモロいまちの人々に迎えられて
慌ただしくも、充実した日々を過ごして
当たり前に、この先もずっとここにいる
と思っていた。

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いろいろあって、夢も志も半ばに
そのまちを離れた。

でも、地元には戻らなかった。

病気のことや家族のこと
数多くの葛藤があって
戻れなかった。

そして松山へ引っ越し

ニートから日雇いバイトへ

日雇いバイトから正規のバイトへ
(先日、コンビニアルバイトを始めて1年が経ちました!)

そしてバイトをかけもちするガチムチフリーターへと
よくわからない進化を遂げていった。

--

わたしを車やバイクに喩えると
非常に高性能なエンジンを備え付けているが
ブレーキやハンドルはまるでポンコツ

らしい。

これまでの人生で
似たようなことを複数の人に言われてきた。

自覚はしている。

だから、近くで様子を伺いながら
暴走しそうなときには助手席でそっとブレーキを踏んでくれる(教習所の教官のイメージ)
今のパートナーとは
出会うべくして出会った
ような気がしている。

なお、出会いはマッチングアプリ。

付き合いはもうすぐ1年になるけれど

松山ではなく地元に帰っていたら
そもそも愛媛に移住していなかったら
出会うはずもなかった人だ。

雇われパン屋さんをしている彼は
穏やかで、マイペースで
でも締めるところはきちんと締める
すてきな男性だ。

毎朝5時とか6時に
眠い目を擦って見送っているが

しんどいことがあっても
大きな弱音を吐くこともなく
コツコツと休まず仕事に行く姿には尊敬しかない。

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大丈夫。
ふたり一緒なら
エンジンとブレーキは揃っている。

ハンドルは…ちょっとあれだな
舵取りが難しいときもあるけれど

どんな方向に行っても
なんとかなるような気がしている。

不満をあげだしたらキリがない
思い込むようなものでもない

ただ、ありのままで過ごせる関係性で
できる範囲の幸せを掴みにいくことは可能であり
実証済みである。


岡山までぶどう狩りへ行ったよ


🍇を頬張る。ちょっぴり幸せ。

なお、車で遠出をするときは
決まってわたしの運転だ。
彼の車の助手席で、リアルに彼はわたしをアシストしてくれたり
時折、口を開けて寝ていたりもする。

閑話休題。

こんなふたりだから、
将来の約束なんて
なにもしていない。

それでいいの?って言われたら
今はそれでいいとしか言えない。

もっともっと と高望みすると
今ある“ちょっぴり幸せ”が離れていく気がするから

へし折れても
ズタボロになっても
目の前の日々を大事に生きるのみだ。

--

夢を叶えられる人はなかなかいない。

いまのわたしは
自分の夢がなんなのかすらわからないし
わからないからそれに向かって努力もできない
という言い訳しかない。

それでも、ちょっぴり幸せなのだ。

ここで例として挙げるのが適切なのかわからないけれど
両親だってそうだ。

知りうる限り、大きな夢や野望があったわけではなく
高校を卒業して、両親ともが大学の夜学に通いながら同じ職場で定年まで勤め上げ
ここまでわたしを育ててくれた。

公務員だった両親の生き様に(心のなかで)中指を立て
何かを成し遂げようと必死だった。

そして、挫折を味わった。

わたし、青かったな。

--

こんな生き方でもいいんだ

目の前のことだけでいいんだ(今は)

プラスαがあるとすれば

自分自身と
半径数メートルで関わってくださる皆さんとが
ちょっぴり幸せでありつづけられるように。

これからも守り続けたい。


おしまい。




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