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地下鉄の待合室、立ち上がれないベンチで考えた事


小さい頃、私ってのは本当に何もできない子なんだな〜、と思っていた。
自信がない、とか、自己肯定感が低い、とかでもなく、実際何をやらせても平均以下だったのだ。


多分早生まれだったのも原因の一つなのではと思う。
典型的な、「要領の悪い子」。

幼稚園の入園式ではやんちゃな男の子たちに混じっておもちゃで遊び始め写真撮影になかなか加わろうとせず大人の手を焼いたし、5歳から始めたバレエ教室でもずーっと怒られていた。多分マジで一人だけめちゃくちゃ怒鳴られていた。
そもそもとんでもなく運動神経が悪かったので、バレエ以外の運動はもっともっと壊滅的だった。

字も汚かったし、忘れ物も多かった。

唯一勉強に関しては特段の苦手意識もなく、4年生ごろから中学受験のための塾に通い始めたので(塾のクラスレベルはとても低かったし、=頭がいいというわけではない)小学校での学習には苦労しなかったけれど、その分友達付き合いに苦戦した。

表立って虐められてはいなかったが、親友のような子もいなかったし、クラスに一人はいる「派手で意地悪でグループの一人ずつを仲間はずれにする子」のターゲットに一番なりやすいタイプだった。


多分トロいし一人っ子だし空気読めないしノリわかんないしで、全体的についていけてなかった感じなのだと思う。

加えてよく男子からブス!って言われるし(挨拶だと思っていた)太っているし、一重で目つきが悪いっていう理由で睨んでることにされて意地悪されることもあったしで、自分の見た目に関しても内面と同じく頭のてっぺんから足先まで、本当に自信が皆無だった。

そんなこんなで、小学校を卒業する頃には、「私は何にもできないし可愛くもないから人よりいろんなことを頑張らなくちゃいけない」と常に力が入った状態で、生きていた。


なんやかんやあって、今は自分の内面については、結構好きだし自信がある。
小学校の時とかに比べたら、本当に息がしやすい。自信があるとこんなにも生きやすいのね〜。


自分の何かに対して自信を持つには、それなりの努力とその努力を結果に反映させること、そして努力と結果を周りに承認してもらうこと、自分自身もそれを認めること、どれもバランスよく必要だと思っているのだけれど、
中学〜社会人の12年ほどで、それらを上手く得ることができたのだと思う。


中学高校が女子校で、そこには所謂カーストのようなものがまったくなく、すごく健やかな人間関係構築ができたことが大きかった。クラスにグループこそあれど、そのグループがベン図のようになっていて、他のグループの子とも遊ぶし、がっちゃんこしたりするし。

「誰もが承認されて然るべき世の中」がそこにはあった。


その調子で大学に入ってからもいろんなコミュニティで友人ができて、あとちょっと大変なアルバイトとか、サークルの企画とかで、成功も失敗もたくさんした。
「バイトも学科も楽しいけど、サークルはあんまり居心地良くないな」とか、環境を選ぶ大事さも知った。その経験を活かして、社会人になってからはいろんなことに対してまずまずの動きが取れるようになった。



まあ仕事でわかりやすく結果を出せたことが大きかったのだと思うけど、結果自分の内面に対してある程度の自信がついて、自分のことを素直に受け入れることができるようになって、そんな自分を悪くないな、いいじゃん♩と思えるようになった。



ただ、この自信というものが、完全に「人として」のみであって、「女として」ではなかった。



私は現時点で異性愛者だが、小さい頃からの感覚でずっと、男性から女性として見られることがなんとなく苦手だった。そりゃブス!とか言ってくる奴にどう思われてるかとか考えたくないもんね。

そんな中で女子校でのびのびライフを送ってなんの障壁もなくアイデンティティを形成して、そこから大学に入ってからが、「女として」はある種の地獄だった。


私が思う「女として」の評価内容は、見た目が7割ほど、残りの3割が、言動・行動などの振る舞いと、振る舞いの元となる性格。

そもそも評価されるものとして認識していたこと自体間違えている気がするのだが、でも世の中って結局そうじゃん?


「女として」の自分に自信がないことと、ルッキズムの権化如くの環境。「人として」の自信もそこそこな自分が、「女として」でも100点を出さないといけない。

より一層肩に力が入りっぱなしだった。


何もしなくとも蝶よ花よとチヤホヤされるような容姿の女の子なら、こんなことは思わないのだろうが、残念ながら私は体感「そちら側」でなかった。

結果、ダイエットをしたりお化粧を頑張ったりと「自信を得る」ための努力まではできても、「他者からの承認」は得られなかった。

というか、はなから得られるわけがないと思っていた。

その点に関しては、私は小学6年生で止まっていた。


大学に入って、それなりに男性の友達ができたりしても、「多分女性としては見られていないから、そう思われないように行動しなきゃ」みたいなことを思っていた。

いかにこちらに好意があると勘違いされないように(若しくは悟られないように)するか、常に心がけていた。それはもう無意識レベル。

今でも、男性と喋るときは声が低くなるし、無表情になることが多い。冷めた人とよく言われてしまう。本当はずっとはしゃいでいたい。

そんな感じだったから、「私のことが好きな人の意味がわからない」とまで思っていた。これぞ真の蛙化現象。

昨今のネットでは「恋愛相手に〇〇されたら冷める」みたいなことの意味合いで使われているけど、本来の意味は「好意を持つ相手が自分に対して好意を持っていると分かると、それがきっかけとなってその相手に嫌悪感を抱いてしまう現象のこと」。

こうなってしまうと、せっかく良いように思ってくれても、何もうまくいかない。


兎に角、「自分が好意を持ったら相手は嫌がるに決まってるな!」と思っていたし、「だからといって自分のことを好きな人なんて頭がおかしい」し、「そもそも全然人のことを好きにならない」。

【他者を愛すにはまず自分を愛しなさい】とは、よくいったものだ。


随分拗らせていたな〜。


社会人になってからは、前述の通り人としての自信が結構あった。なんやかんや自分のことが好き。できないこととか、まだまだめっちゃあるけどね。

だから自分のことを好きと言ってくれる人って、超いいじゃ〜ん!とシンプルに思うことができた。

「私は女性としての魅力はないけど人としての魅力があるから、この人は私のことを人として、内面を見て好いてくれているに違いない!めっちゃいい人!」みたいな感じ。


ただ、ここに今現在の私の問題がある。

自分のことを好いてくれて一緒にいてくれる人と対峙する上で、「女性として」の自分だと、立っていられない、というわけだ。

うまく言葉にできないんだけど、「せっかく人としての自分を評価されているんだから、ちゃんとし続けなきゃ」みたいな感じ。

だって私が私のことを好きになれたのは、「ちゃんとする」ことを努力し続けた結果だから。


評価評価言ってるから相手の態度が悪いんじゃないかというように捉えられそうだが、多分全然そういうことではないのだと思う。

相手の顔色を伺って嫌われないように、みたいなことではない。

私が伺っているのは、多分自分自身なのだと思う。
相手に映る私を介して、自分で自分を評価し続けているのだ。


あるとき、自分にカメラを向けられることがとっても怖くなった。
自分の顔や表情が写っていない写真を相手が気に入っていて、「そりゃ顔が写ってない方がいいもんな」と思った。
私がわがままを言うのは「らしくない」から、やめておこうと喉に押し込んだ。



まあ「女として」の7割は容姿だと思っているから、自分の容姿に自信が持てれば大体大丈夫になると思うんだよな。
多分容姿に自信がないから、立ち振る舞いや言動も自信なさげになるのだ。

美醜の価値観や容姿の好みといったものは人によってまるで違うから、何かを基準にしてまるバツをつけるものではない。
だからこそ、自分の容姿に自信がある人、なんで?!?!!すごいね!!!!と思う。
と同時に、私は私以外の皆をそれぞれ可愛いと思ってるから、そらそうだよね!!!と思ったりもする。


自分でも何かがとんでもなく歪んでいることはわかる。
でも解決策が見えない。

私はこんなことを吐露することで私の好きな人を傷つけたり、悲しませたりしたくない。してはならない。
だから一刻も早く解決したい。


解決したくて、筆を取ったけど、書いてみたけど、全然わかんない!



写真を撮られるのが好きとか言ってる被写体の人って、一体全体どういう人生を歩んできたのだろうか?

ああ、自分を好きになりたくて努力をたくさんしたのに、全然終わりが見えない。


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