弟子活は1対1の勉強会だと思った話
思い立ったが吉日な、走り書きタイムですw
今回は、ふと最近やっている「弟子活」というのが1対1の勉強会だなと思いました…という話を。
カンファレンスや勉強会がキャンセル待ちで相手の参加する機会を逃してしまったり、集客が…となって、参加者数名を前にして、学ぶ以前のことで気持ちが落ち込んでしまったりした経験があるので、弟子活は自分の中ではやりやすいやりかたなのだと気づきました。
コーチングとは違うかもしれないのは、私自身のための時間にもなっているというところですね。もちろん、コーチする側もコーチングを行うこと自体が学びという捉え方もできるので、そうなると同じ感じもしますが…。
単にサシ飲みをしているのでも、世間話をしているのでもなく、弟子活の場は弟子は学ぶつもりできていること。そして師匠は弟子からも学ぶつもりでいること。ただし、師匠と弟子という明示的なものにすることで、関係性というか、お互いの「在り方」はわかりやすくて、学びがおきやすい状態にあると思えました。
企業向けの研修をしていて思い知るのは、「学ぶ姿勢」の有無は大きいということ。命令されて受講させられている人に学びを起こすのはすごく労力のいることで、2時間の研修の1時間をつかって学ぶものに向き合ってもらうこともあるほどです。結果、向き合えなくて退出という場合もあります。でもそれはお互いの「時間」を使っている場なので、見合わないと思ったらそれはそれで良いのだとも思っています。もちろん、私の教え方が悪いという話もあるでしょうが…。
弟子活はそれが発生しにくいです。企業の中でも社員同士というのは試せていませんが、企業内での「学びたい」を拾っての場もあるので、学びがおきやすい。そして、1対1だから、相手とも向き合えるし、向き合ってもらうための時間も1人に合わせて作れるので早いし、深い。
1対1だとコストが…という話はあるでしょうが、まぁ、それは置いて置きます。それよりも1人におきる学習の効果の方が圧倒的な気がします。あ、ちなみに弟子活ではかかる費用は折半という感じで、学び以外の部分ではフラットにやっています。「師匠」というと、えらそうに…となるかもですが、どちらからというと私にとって「弟子」という言葉の持つ、そして向き合う対象になった時の「背筋が伸びる感」の方が強いです。だいたい今の世の中「師匠!」って呼ばれることもないので、普段も普通に名前で読んでもらってます。携わる責任みたいなものを自分にもたせるための名称なのだと思っています。同じテーマについて学ぼうとしいて、悩んでいる同士…な人にえらそうなこと言っている場合ではなくて、その悩みから学ぶことは多く、また伝えることで、どんどん自分の中でも変化していったり、気づきがあるので、むしろありがたいです。
私の弟子活はファシリテーションをテーマにしているので、ファシリテーションする体感は大事にしています。ですから、弟子にはワークショップだったり、自分で会議のファシリテーションするような場所(空間・機会)ができるように協力しています。シェアオフィスの場を使ってもらったりと…。ファシリテーションを学びたいと思う人たちは様々な場と人、テーマに向き合っているので、まとめて同じような伝え方ができないというのも弟子活にしている理由かもしれません。30人集まった場では、一部の人があまり関係ない時間を過ごしてしまうということもさせてしまったことがあり、ファシリテーションというものの「あいまいさ」がそういうことを起こしてしまうなと。そして、私とは違う感じかもと思う「ファシリテーション」を求めている人もいますしね。
ああ、珍しく長く走り書けました。
多くの人に伝えたい、知ってもらいたいことだったり、その人が行動を起こす、というか学びが使える状態になってもらいたいとかだったり、「伝える」動機も様々ですし、学ぶ側の動機、期待もさまざまになってきているからこそ、1対1で向き合った学びというのは、楽しいし、有意義だし、なんとなく心豊かにもある気がするし、私ができる小さい場の一つになっていっていると実感してます。
昨年くらいから、ファシリテーターの弟子活は、弟子が思い立ったから始まるという感じでやってます。「弟子にしてください」は一つのスタートのフィルタかもしれませんが、宣言みたいなものなのでしょうね。そして弟子は結構すぐに師匠を追い抜いて卒業していきますww。再入門もありますけどw。
「学び」という「失敗」も「改善」もしやすい場で、しっかりと学ぶ人の現場(リアル)を扱える弟子活。そこに私は自分の現場(リアル)と、今まで学んだいろんなこと、今も集めているいろんな情報、人のつながりを全部持ち込んでます。
つづく…
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