見出し画像

ファシリテーターの身体性を考えてみた話

リモートでオンライン環境で会議や対談、ワークをやってみる中で、オンラインはオンラインならではの良さがあると感じられるようになりました。もちろんオフライン、リアルな場での良さは語る必要もなく、それと比較するというよりも目的、場に応じて使い分けができる時代になりそうだなと感じています。

その中で、自分がオフラインな場で身体性として場を受け止めていることを、オンライン環境でどう受け止めているかの感覚について考えてみました。

名称未設定のアートワーク 4

図の通り、リアルなオフラインの場では、観る、聞く、感じるというような感覚は、同時にそこに存在して、そこから受け取ることができます。「なんとなく」できることがすごいということに気付かされます。そして、オンラインでは、観る、聞く、はそれぞれ別々のデバイスに分かれるので、観るは「画面」越しに、聞くは「音声」越しにもらい、さらに観る対象も画面のサイズや、モニターの数にもよりますが、それぞれ別に存在しています。これはオンラインのサービスはそれぞれに特化し、シンプルにすることで、特徴を出すことをしていることが多いので、一つに統合した感覚にすることは難しいということに繋がります。ネットでも全部をするのにモニターを増やして、音声も別々のところからそれぞれ繋いで…とすればできるということは話題にもなっていましたが、それ自体がかなり豪華な…というか、無茶な環境になるので、現実的ではないという結論に現時点ではなっています。

オンラインでのファシリテーションをする時に、自分が用意する環境は、オンライン、つまりパソコンやデジタルデバイス(スマホ、iPadなど)は、キーボードやマウスなどサービスの操作がしやすいパソコンで場の整えや調整をして、文字を書いたりするアナログな部分の出力内容としてiPadを利用しています。カメラも一つのこちら側から場に見せる装置なので、スマホで入れる準備や、切り替えられるカメラ(アナログでも対応できるように私は書画カメラを流用してます)も用意してます。ふと、時計はどうしているかなと思ったら、時計は部屋の時計を見ていると気づきました。下の画像が、実際にオンラインでの場をファシリテーションした時の様子です。

画像2

つまり、オンラインでの身体性は再現は可能で、実際のリアルな体験と結びつけるところまでいけると「オンラインでの認知」というものが確率されていくのではないかと思いました。

あまりまだ結論じみたものではないので恐縮ですが、今後もオンラインでのファシリテーションの感覚についてはまた書いてみたいと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?