ファシリテーターの弟子を取っている意味を考えた時のいろいろ…。

ファシリテーションは、ファシリテーション単体だけでは成り立ちにくいものです。

海外の方に「私はファシリテーターです」と名乗れば「何のファシリテートをしているの?」と質問される…という話をしたのですが、facilitate自体が、単なる動詞でしかない上に、「何か」が分からないと、「何か」が定まらないと、目的や対象が見えないと、どうファシリテーションするかも決まらなかったりします。

◯◯・ファシリテーターの、◯◯があって外部からは認識される。

そして◯◯があるゆえに、ファシリテーションよりも◯◯の力(意味合い)が強い、もしくは◯◯が具体的がゆえに捉えやすくて、ファシリテーションは言い方は悪いかもですが、付属品のような感じになり、明示的にはしなくてもいい…くらいになる気がしたり…。

さらにファシリテーションというものが、私個人的には、それほど特別なスキルではなくて(誤解がないように補足すると、ファシリテーションにもレベルはあって、プロのファシリテーターは特別なものがあると思います)、新たに習わなくても、みなさんが無意識に、自然にすでにやっているものだったりもします。そう考えると、特にファシリテーションだけを語らなくとよいところでもあるというわけです。

ただ、意識してできるようになるとファシリテーションが活きてきます。よくわかっていないままにファシリテートするよりも、ファシリテーションの影響というのがわかってきます。意識的にやっているうちはどこかぎこちなく、そのぎこちなさも場に影響しますので、、そこからそんなに違和感のあることでないファシリテーションになってくれば、ある意味、無意識になりやすくなります。ただ、気づかないままの無意識と、一度意識した上での無意識では、パターンみたいに何かしら自分なりの蓄積になって、場に向き合うと決めた時に、無意識な思考性に寄り添ってファシリテーションとしての行動になって現れる…という感覚になってきます。

その場、その場、その瞬間、その瞬間にいちいち場を分析したり、意識し続けたりすると、参加者が意図を探るようにもなります。だからファシリテーターはその場では自分の直感、というかそのファシリテーターにとっての、その集まりにとっての直感で流れてゆくのかなと。あるがまま、その場で起こることが起こる。そういう感覚です。OSTの感じが私には肌にあっているのでしょうね。最初は「何かをしてもらう」というファシリテーションから、最近では「何かが起こることを委ねる」というファシリテーションに。Manegement 3.0の影響でもあるし、パタンランゲージや中動態、中間支援体というのが心地よいのもそういうところにあります。

そんな感覚なので、今やっている「ファシリテーションの弟子」というやり方を選択したのかもなぁと今は思います。最初はただファシリテーションについて語り合う仲間が欲しかったのかもですね。そして今は◯◯(テーマ)で語り合えるけど、◯◯の集まりだと、ファシリテーションの部分について語れなかったり、相談しづらいということがあるのかなと。もちろん◯◯においてはファシリテーションは本質ではないのでしょうけど。そこに悩む人たちがその話をして良い場となるように、弟子にお誘いしてる状況です。

では弟子は何を得るのか…。これはまさに千差万別。各自の◯◯の文脈に合わせた、◯◯の現場に、向き合う対象によって違う捉え方で、「意識する」ことを得るのかなと。そこも委ねています。必要がなくなれば、卒業もいつでもできますしね。そして、ファシリテーションについては、誰のやり方が心地よいかとか、目指したいか、というのはあると思います。ファシリテーターのスタイルは人の数だけありますから。隠れファシリテーションというのも立派なスタイルだし。

少しだけ脱線しますが、師匠と弟子というのはフィードバックがいい感じに活きる関係性だと思ってます。弟子は師匠にリスペクトがあるし、師匠も弟子にリスペクトがあるし、弟子は弟子が受けとめられるものだけを受け止め、師匠は弟子が受けとめるかどうかは関係なく、自分が持っている情報や環境の全てを見えるようにしています。違和感があれば、それは弟子のオリジナルとして育てていけば良いとそう思います。ファシリテーションを使う環境も、集まりも、状況、ステータス、フェーズも違うわけですから。

ファシリテーターの弟子になってくれた人たちと話すことで、私はファシリテーションが置かれている「今」のリアルを知ることができます。だから弟子活は私に取ってもすごく価値のある活動です。なによりファシリテーションに興味をもっている人たちと語り合えるのがうれしいです。仲間みたいものですから。

ファシリテーターは◯◯をしっかり進めるための公認ファシリテーターのように道筋に沿って促進させるものもファシリテーターです。道のないところにテーマという軸を元に人の集まりがどういう「促進」をしていくのかを支える役割のファシリテーターもあります。どちらも「人」に向き合うのには変わらなくて、向き合う人は、ほんとに多様で、一人一人に向き合おうとする気持ちをファシリテーターは持っているのかもしれません。型を大事にしてみるというファシリテーターもいるかもしれません。自分が参加した場で、ああ、この人が居る場はいいなぁと思たら、それが自分の目指したいファシリテーターと言えますね。◯◯というテーマ、コンテンツを目指したいという場合は、まずはファシリテーションというよりも、テーマ、コンテンツを深めていくのが良いのでしょう。

対象が人で、その場に委ねて、向かう先に絶対の決まりがない場合、方向性のみのファシリテーションというのが、自分が向き合いたいファシリテーションなのだなと、ここまで書いてみて思いました。

促進なので、本当のところは方向も関係なくて、「停滞」、何も起こらない、何も感じない、何も考えない。というのにならないように…が本質なのかもですが…。

弟子になってくれた人たちが少しでも何か始まっていたらうれしいです。

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