なぜ、あなたの善意は空回りするのか?
【超訳】あなたが大切にしているものは、わたしが大切にしているものとは異なる。この認識が言語ゲームの違いである。だから恐れるな!言語ゲームを、劇を、書き換えよ!
著書の1冊目「世界は贈与でできている」は衝撃を受けた一冊でした。一年後に死ぬとして読み返したい本と評し、このレビューを書き終えてすぐに自分にできることはないかという衝動に突き動かされて、すぐにドナー登録をして行動に移したほどです。
今回の新著は、前作の続編ともいえる位置づけですが、今回は「善意」というテーマに深く切り込んでいます。善意は一見すると誰にでも良いものだと思われがちですが、時に私たちの善意が空回りし、相手にうまく伝わらないこともあります。なぜ、善意は時にうまくいかないのか?そして、どうすれば善意を効果的に相手に伝えられるのか。この本は、私たちにその答えを探求するための手がかりを示してくれます。
アンパンマンの善意はなぜ成功するのか?
アンパンマンの善意が成功するのは、「空腹である」という共通基盤があるからです。彼が助けを提供する相手は、空腹というわかりやすいニーズを抱えており、そのためアンパンマンの「善意」が失敗することはありません。
しかし、現代社会は多様性が広がり、共通の基盤がなくなりつつあります。私たちの善意が、なぜ相手に伝わらないことがあるのでしょうか?この書籍では、「善意が空回りする原因」を「言語ゲーム」という視点で説明しています。相手の価値観や考え方を理解せずに善意を押し付けることが、実はコミュニケーションのズレを生んでいるのです。
人生は舞台。人は皆役者
シェイクスピアの有名な言葉「人生は舞台、人は皆役者」というフレーズは、私たちが生きる中で常に自分を演じ、役割を果たしていることを示しています。時には自分の演じる「劇」を間違えたり、セリフを誤ることもありますが、その都度ストーリーを新しく書き直すことができるのです。
この本は、私たちがどんなに失敗しても、いつでも人生をやり直せる勇気を与えてくれる一冊です。
善意が空回りする時代を生きる私たち
私たちが生きづらい理由。それは僕らの身体、脳、精神は数万年前の環境を生き延びるために獲得された状態のままです。進化的適応環境(EEA)と呼ばれる、われわれヒト固有の適応が進化した舞台はいまだに数万年前の環境にフィットしたままになっています。
つまり「生きづらさ」は、身体的特徴および心的特徴と現代社会の技術、環境の変化のミスマッチゆえに引き起こされています。太古的な環境では適応的だったが、現代的な都市生活においては不適応がゆえに生まれた「認知的バイアス」。サピエンスは、環境の側を変えてしまう進化のプロセスを裏切る存在なのです。
環境に適応できなくなる種は絶滅の道をたどります。しかし、ヒトが絶滅を免れている理由は、互いにケアをしあう、ケアと利他という概念を獲得することでもあります。後悔と恥、罪悪感や赤面というのは極めて高度な認知的作業。これはサピエンスだけができる葛藤であり、あなたが大切にしているものは、わたしが大切にしているものとは異なるという認識から利他は始まります。
多様性の時代とは、僕らの善意が空転する時代
大切にしているものに関する認識の共約不可能性。大切にしているものの複数性が存在する時代であり、「大きな物語の失効」と言い換えられます。かつてダーウィンは「汝が他人にしてもらいたいと思うことを、汝も他人に対してなせ」と説きましたが、「その他者が大切にしているものは何か」を尊重しない限り、ありがた迷惑であり、善意の押し付けになりかねないということなのです。そこには「与えたい」「してあげたい」というこちらの一方的な思いは含まれていません。これが含まれた瞬間に、善意が押し付けという暴力性を持って有してしまうのです。
大切にしているものは目に見えないが、大切なものが大切にされなかったとことは目に見える。なぜなら、ひとは傷つくから。関係性は見えないが、傷は見える。ゆえに、傷をこのように定義されます。
傷:大切にしているものを大切にされなかった時に起こる心の動きおよびその記憶。そして大切にしているものを大切にできなかった時に起こる心の動きおよびその記憶。
サバイバーギルト(なぜ私だけ生き残ったのか自傷する行為)のように、前者の傷も後者の傷も、どのような他傷も自傷へと変換してしまう認知メカニズムは、ケア論、利他論、傷をめぐる議論とつながっているのです。
利他は本質的に「葛藤」を内包している
本書では、利他とケアを以下のように定義しています。
利他:自分の大切にしているものより、その他者の大切にしているものを優先すること
ケア:その他者の大切にしているものを共に大切にする行為
利他はケアの部分集合であり、ケアは利他の必要条件(利他はケアの十分条件)である。ではなぜ、ひとは時にケアをためらうのか?それはケアを「システム」が禁じるからです。システムというのは公平性や公共性といった価値に基づいて設計されたものではあるが、システムから「はぐれてしまった者」というのも事実として存在します。
経済学者の宇沢弘文が自動車1台あたりの社会的費用は年間200万円かかるという試算を出しました。「損失は金銭的に補填できる」という発想ではなく「どのような都市環境や道路構造であれば事故が発生しないか」という根本的な発想の転換。これは宇沢本人にとっての使命感であり「ケア」だったかもしれませんが、その姿をみた僕らにとってシステムや常識に囚われていた認知的に自由を解放してくれたという意味で「利他」に映る行為です。
見えないものを見ようとしなければケアは、ひいては利他は成立しない。大切にしているものもの傷もすべてを内包する「魂」をみつめることに、ケアの本質が存在するのかもしれない。他者をケアしようとする中で、これまでの規範と齟齬、矛盾、すなわち葛藤が生じ、そこから自分自身が変わってしまうという自己変容がある。そのような出来事が利他なのです。
ケアは他者に導かれることから始まる
私から始まるのではなく、他者に導かれます。つまり「他者に影響される」。それは固執しない、あるいは固執できないということがケアの条件となる。対して、偽善は、自分自身の計画に固執し、相手に執着する。ケアは、恋に似ている。相手やものに対して恋することができるし、僕らに自己変容をせまる。そして恋に偽善はない。したがって、他者に導かれれて為されるケアに偽善は存在しない。
言葉にしてくれないと分からない
すべての発見は「そうだったのか」という過去形で語られることになります。だからこそ、私たちはこんな風に他者との関係性を嘆くことになります。「言葉にしてくれないと分からない」。だが、私たちが生きている心地を感じることができたり、他者を信頼できるのは「十分な言葉で心を切り取ることができないにも関わらず、分かってもらえたと感じる」とき。「言わなくてもわかってもらいたい」。自分の心はうまく説明できないけれど、理解しようとしてもらいたいという倒錯的で面倒な思いを抱くのかもしれません。
ウィトゲンシュタインの解釈では、内面が隠されているから心が分からないのではなく、振る舞いの意味が分からないときに、心が隠されているように思えるという指摘をしています。例えば、抜毛症に悩む娘の本心は、「心配かけたくないが心配してほしい。甘えたいが甘える立場ではいけない」という深層心理の表出化だったりします。相手が営んでいる劇全体を知ろうとすること。「心が分かる」を為すためには、他者の放つ一つ一つの言葉、一つの文を孤立させてはならない。言葉と文が織りなす、その他者が大切にしている物語を知り、共に劇を作り出すことなのです。
予測できない不確実なコミュニケーショんを僕らは恐れる。そうではなく、ある特定の劇を前提とせず、その人の前に立つこと。どのような言語ゲーム、どのような劇であっても驚かないこと、不安に感じないこと。あなたの「心」が語り出されるをただ待つことが必要なのです。
ケアとは言語ゲームを続けること
言語ゲームの最大のペナルティは、ゲームからの停止であり、退場である。言語ゲームとの停止とは、関係性の消失、排除を意味する。他人の心は分からないから原理的に他者に寄り添い、ケアすることができないのではありません。言語を使用して共通認識をもつことで、他者の痛みをケアすることができる。たった数cm離れた場所にいても、あなたの悲恋は相手は感じることができない。必要なのは、勇気。このゲームを続ける、あきらめないこと。このゲームを踊り続けることがたったひとつの目的です。
物語を知ること、劇を真似ること、存在を肯定すること
心はいつだって日常の円滑な言語ゲームからこぼれ落ちる可能性を孕んでいます。まずは「やさしさ」(絵本、童話)のような典型的な劇を学ぶべきですい。そこには分かりやすい勧善懲悪、伏線もない、いわば硬化した利他から習得することから始まります。
しかし、他者の心が見えなくなる瞬間に事件は起きるし、ケアはケアできない時にこそ最も必要とされます。僕らの悲哀と傷はただただ物語によってのみ癒されます。「あなたは何も間違っていない」それを示すこと。これこそがケアの本質です。
傷の予感に導かれない善行は偽善であり、ケアはただまっすぐ、その他者の傷に向かい、ケアをする。ケアの眼差しは「あなたは間違っていない」。物語の語り直しによる、過去の出来事の改編それ自体をケアと呼びます。
正解を制作する
他者に導かれて、その邂逅をきっかけにして起こる私内部の物語の改編、劇の書き変わり。それは「する」ことではなく「なる」こと。権威者が事前に用意した、確固たる模範解答ではない。私の行為が「正解だったことになる」という形の、遡及的・事後的な正解はちゃんとあり得るです。そのためには、勇気をもって、飛ぶこと。その人のために飛べ。言語ゲームを、劇を、書き換えよ!
利他とは相手を変えようとするのではなく自分が変わること
予見不可能性の対概念は、管理あるいは支配・コントロールです。叱るは私から始まるのに対し、ケアはあなたから始まります。叱るはあなたを変えたい、変わってほしいという欲望に根ざすが、ケアはあなたの傷に導かれることによって私とあなたの間にケアが起こります。叱る時は、「あくまでそうしてもらわないと私が困るから」と素直に認めることです。
もし、相手に変わってほしいと思うのであれば、その人が「間違っていた」と悟るまで待機すること、タイミングを見逃さないこと。即応すること。ここにケアの本質があります。
傷、自己変容、そしてセルフケア
自らの中にある傷が、他者の傷に呼応する。そこにケアがある。他者の傷に触れることは私の傷を開く扉です。そしてその時、利他が起こります。利他とは、他者の傷に導かれて、ケアを為そうとするとき、自分が変わってしまうセレンディピティが起こる。
「樽山節考」の姥捨において、一人息子の辰平は、お山参りの掟を破るという愚行を犯した。しかし、彼は道徳ではなく倫理に従った。利他は愚行でなければならない。それは未来の自分、未来を生きている辰平自身に向けられた利他なのだ。セルフケアとは、未来の自分という他者を救うことである。つながりを結び直す、出会い直し、生き直す、これがセルフケアであり、誰かからの支配も束縛も受けず意志に基づく選択であり、自由を生きる感覚です。
新しい言語ゲームを作る
私たちは、ある特定の劇から降りることはできるますが、あらゆる劇からは降りることはできません。だったら新しい劇を作ってしまえばいい。自分が置かれている劇がつらいものだとしても、単なるゲームであり、劇にすぎない。新しい劇の到来を信じ、それがあなたのもとに、私のもとに訪れるのを待つことを「祈り」と呼ぶのかもしれません。誰かのために、私のために。誰かを救うために、私を救うために。
ケアを職場に浸透させる「雇用クリーンプランナー」の社会的役割
私が推進している「雇用クリーンプランナー」という資格制度も、まさにこのケアの精神を職場に取り入れるために設立しました。ハラスメントや労働トラブルの問題に取り組む中で、多くの職場で「善意が空回りする場面」や「押し付けの善意」が原因となり、信頼関係が壊れてしまうことを目の当たりにしてきました。雇用クリーンプランナーの役割は、こうした問題の根本にアプローチし、「一方的な指導」ではなく「共感をもとにしたケア」を実践できるリーダーを育成し、働きやすい社会を実現することです。
現代の職場においては、ただ業務を効率的に進めるだけでなく、従業員一人ひとりの価値観や大切にしているものを尊重しながら関係性を築くことが求められています。そこで必要なのが、対話による共感、そしてお互いを理解しようとする姿勢です。私たちがケアを実践し続けることで、ハラスメントの根本的な防止にもつながるのです。