
目の見えない人は世界をどう見ているのか
【超訳】「視覚障害者はどんな世界を見ているのだろうか?」そこには美学と生物学が交錯する、新たな身体論。ハラスメントの超越論のヒントがある


おそらくこの本を一人ひとりが読み、しっかりと考える時間を持てば、ハラスメントの火種は根こそぎ消せるのではないか。そう思わずにはいられません。「視覚障害者って、どんな暮らしをしているのだろう」「目が見えない人は、世界をどう感じているのか」。本書は、そんな疑問を出発点に、生物学と美学という異なる領域を横断する形で、新しい身体観を提示しています。
著者の伊藤亜紗さんは、「身体一般」という普遍的な捉え方に埋もれてきた「違い」を掘り起こす必要性を強調します。見える人が目を閉じれば視覚障害者の気持ちが分かる、というわけではない。見える人が簡単に目を閉じたところで、それが視覚障害者の実態に直結するわけではない。むしろ「見る」という文化的・社会的行為の暴力性を意識することが鍵なのです。これは私たちが当たり前のように視覚文化にどっぷり浸かっていることを見つめ直す試みともいえます。
中でも私が強く魅了されたのは、「違いを面白がる」という視点。障害を単に「サポートする対象」と見るのではなく、それぞれが持つ感覚の多様性を学び合う。その瞬間、人間同士の距離感やコミュニケーションがガラリと変わる可能性が広がるのです。これこそが、ハラスメントを根底から減らすアプローチとしても見逃せない刺激に満ちた発想だと感じます。
どうして福祉的アプローチが縛りを生むのか
視覚障害者と聞くと、多くの人は「助けなきゃ」「支援しなきゃ」という福祉的な態度を思い浮かべるかもしれません。しかし本書では、その一見親切そうな姿勢が、見える人と見えない人双方を緊張させてしまう場合があると指摘します。見えない人を「劣った存在」とみなす前提が潜んでいないだろうか、と問いかけるのです。
著者が強調するのは、「見える人と見えない人のあいだには優劣ではなく差異がある」という点です。その差異を楽しみ、互いに学び合うような関係こそが理想的ではないか。これはハラスメント問題にも通じる部分があります。相手を「できない人」と見なし、足りない存在として扱うことが、衝突や不信感を増幅させているのではないか。違いをいきなり劣等と結びつけることで、人間関係をギクシャクさせる構図が生まれるのです。
見える人が目をつぶることと、そもそも見えないことはどう違うのか?
多くの場合、「目を閉じてみれば視覚障害者の気持ちを体験できる」という認識があるかもしれませんが、これはあくまで視覚のある人が意図的に視覚情報を遮断する行為です。
四本脚の椅子と三本脚の椅子では、安定の取り方がまったく違うように、はじめから視覚を持たない状態と途中で視覚をオフにする状態とでは、身体が感じ取るバランスや意味づけが根本的に変わります。実際、同じ世界にいても、私たちは自分の感覚を通じてそれぞれの「環世界」(生物学者ユクスキュルが提唱した概念)を構築しているといえます。
つまり「世界がどう見えるか」は個々の主体が周囲の事物にどんな意味を与えているかと深く結びついており、視覚障害の有無はその意味の編み方を大きく変える要素の一つなのです。
なぜ見えないことで死角がなくなるのか
特に面白いのは「視覚障害者には死角という概念がない」という指摘です。私たち見える人は、表と裏、見える部分と見えない部分といったヒエラルキーを自然に作り出しています。しかし、初めから視覚を持たない人は、そもそも表裏の区別を必要としない。富士山は初めから立体だし、太陽の塔に正面という概念はない。死角を作り上げているのは私たち「見る側」の文化的な発想かもしれない、というわけです。
加えて、見える人は絵画やイラストなどの文化的イメージに強く影響されています。視覚情報を当たり前とすることで、逆に世界を狭く捉えている可能性がある。この観点からすると、「視覚がない=不便」という図式は一面的すぎる。むしろ視覚を持たないからこそ別のセンサーを活用し、豊かな世界認識を築いているかもしれません。
教育はどうして「見る世界」への移行を促すのか
近代社会では「百聞は一見に如かず」と言われるように、視覚優位の風潮が強いと著者は述べます。視る力を育て、自分と対象を分断して捉えることが大人になるプロセス、とみなされがちなのです。しかし、この視覚中心の教育観が、触覚や聴覚を活かす可能性を抑制してはいないか、という疑問が呈されています。
脳性まひ小児科医熊谷晋一郎氏の「自立とは依存先を増やすこと」という言葉が引用されており、周囲のサポートを上手に取り入れることが上手であり、むしろ目が見えなくても心豊かな生活を送れる例があると指摘されます。
一方、視覚が基準となる社会的常識や、自立のイメージが誤解されたままだと、障害のある人が持つはずの多様な生き方や学び方が阻害されてしまうかもしれません。つまり、視覚重視の世界が唯一の正解とされることで、多彩な身体観を狭めてしまう危険があるのです。
どうしてソーシャル・ビューが「見える人」にも新しい気づきをもたらすのか
著者が挙げる「ソーシャル・ビュー」という視点は、見えない人と見える人が、お互いの感覚を持ち寄ることで、まったく違う知覚の仕方を発見できるという考え方です。これは単に見える人が補助技術を提供する関係を超えて、共に学び、共に気づきを得る相互作用といえます。
「ぼくたち盲人もロダンをみる権利がある」というメッセージを生み出したギャラリーTOMの事例やエイブル・アート・ジャパンのワークショップでは、見えない人でもロダンを鑑賞しようとする試みや、触覚・聴覚を活用する芸術体験が紹介されています。
こうしたプロジェクトは、いわば「見える人」にとっても大きなインパクトを与え、自分がどれだけ視覚的イメージの固定観念に染まっていたかを思い出させてくれるのです。著者が「見える人も盲目」と表現するのは、私たちが視覚を当然だと思うあまり、逆に見落としているものがあるという示唆です。
「境界が揺れるような関係」を築く意味
「目の見えない人は世界をどう見ているのか」という問いを追うと、私たちは「違い」をすぐ劣等や不便に結びつけがちですが、そこに多様性ならではの面白さや学びが詰まっていると気づきます。たとえば助ける・助けられるという一方向の図式ではなく、見える人も見えない人から学べる余地が大きいのです。
相手を自分と同じ価値基準で裁こうとするのではなく、「違う体」「違う感覚」を面白がれる余裕が必要だと感じます。お互いの境界が揺らぎ合う関係を築くことで、盲目も含め、まだ見ぬ世界を学ぶ絶好の機会になるのではないでしょうか。
「無知のヴェール」の前ではみな平等
「無知のヴェール」の前では誰もが平等になれる。ジョン・ロールズが説くこの概念は、自分の立場や条件を一度棚上げして公正を考えるという発想です。「ぼくたち盲人もロダンをみる権利がある」という言葉にも、それと似た感覚が宿っているのではないでしょうか。
視覚の有無をいったん脇に置き、自分が当然と思っていた基準を揺るがしてみると、普段当たり前とされる社会のルールや習慣が根底から動き出し、ハラスメントを超越できる新たな視野が広がる可能性があります。
ハラスメントを超越する発想へ
「見える・見えない」という区別を超えて考えると、自分の立場や感覚が必ずしも当然ではないことに気づかざるを得ません。それは、周囲との関係性を再構築する契機となり、「自分の基準だけが正しい」という前提を揺るがす手助けにもなるはずです。
実際、ハラスメントの根底には自らの基準を絶対視し、異なる存在を排除する傾向がしばしば見受けられます。けれど、「自分の見方こそ正しい」という思い込みを一度外してみることで、他者の存在や多様な感覚を面白がる余地が生まれ、結果として豊かな関係性を育む土壌ができるはずです。
例えば、ダイアログ・インザ・ダークのように完全な暗闇を体験する施設では、視覚障害者の案内役のもと、まったく光のない空間を初めて会う人たちと一緒に歩き回ることで、性別や年齢などの立場をいったん忘れ去り、声や微かな気配に頼ったコミュニケーションを行います。これはまさに「無知のヴェール」を体感する好例といえ、見えていたはずの情報を取り払うことで、互いを助け合う関係が自然に生まれるのです。
こうして視覚すら絶対ではないと認識し、未知の状況に身を置くと、これまで意識していなかった他者の声や表情を、より鮮明に受け取れるようになるかもしれません。その姿勢こそが、ハラスメントを乗り越え、互いの存在を尊重し合う社会への大きな一歩なのではないでしょうか。
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