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消えゆく断片を拾い上げる『世界の適切な保存』

【超訳】この世界は、回収されない伏線や見過ごされる断片に満ちている。それらを“適切に保存”することこそが、本来の私たちの役割なのかもしれない。

世界の適切な保存 永井玲衣
超訳まとめシート

「世界の適切な保存」と聞くと、壮大なタイトルに少々身構えてしまうかもしれません。そんな小難しい話ではなく、丁寧に拾い上げる“些細な瞬間”や、何気なく見過ごしそうになる“生の断片”の大切さについてです。

たとえば、映画や書物の中で割りばしでアイスコーヒーをかき混ぜるシーンがあれば、それがときに大きな事件の伏線になる。そんな例え話は、私たちの現実世界にも潜む小さな“兆し”を大切にする視点を与えてくれます。

“保存されない瞬間”にあふれた世界がある一方で、職場や社会でも“誰かの声”や“記憶”が意図せず消え去っていく構造があります。「神は細部に宿る」ではないですが、保存されない瞬間にこそ、見逃せないヒントがある。さまざまな伏線が回収されずに通り過ぎる世界の中で、私たちは何をどのように残していくのか?その問いに一緒に向き合ってみたいと多います。

なぜ“伏線は回収されないまま”で残っているのか?

「わたしたちの世界には、回収されない伏線が無数にある」という一文。映画や小説であれば、割りばしでコーヒーを混ぜるシーンが重大な事件解決の鍵になるなど、巧妙に回収される場合がほとんどです。けれど、現実の世界では、ほんの些細な出来事が“意味づけ”されないまま散らばっているのです。

これは裏を返せば、私たちは日常の大半を“意味づけせずに”通り過ごしている、ということ。たとえば、通勤途中の歩道に落ちている石ころが、後々大きな災難の始まりだった、なんてことはあまり起こらない。でも、もしかすると石ころを拾う行為で救われる人がいるかもしれない。そんな想像力を広げるだけで、日常の断片が少し違った輝きを持ち始めるのです。

“不完全なまなざし”が不完全さごと保存している

また、記憶の不完全さをめぐる章もあります。私たちは“時間が経つほど記憶が削られていく”と思いがちですが、著者は「もともと私たちのまなざしは不完全。断片的な記憶は不完全なまま保存されている」という見方を提示します。これは、伏線が回収されないままで散在しているのと同じように、私たちの経験や思考も“全部はつながらない”まま、どこかで眠っているということです。

この“不完全な保存”に目を向ける姿勢は、ハラスメント問題にも通じるところがあります。見過ごされがちな微妙な言い回し、曖昧な場の空気、被害者が声を上げる前の小さなサイン。これらも伏線のように見えて、回収される機会を失ったまま放置されることが少なくないのではないでしょうか?

どうして“伝えること”はいつも不安で、かつ大切なのか?

「ほとんどの場合、何かの思いが完全に伝わることはない」という現実を、冷静に認めたうえで、その伝わらなさをどう扱うかを問いかけています。私たちは誰かに何かを伝える際に、急に臆病になったり、逡巡したりしてしまう。だからといって“言わない”ままでいるのも、まるで伏線を放置しているようで気持ち悪い。そんなジレンマに陥りがちです。

お互いの言い分が完全に伝わることは難しいかもしれません。でも、それでも言葉を紡ぎだし、理由を述べ、相手に届けようと試みることに意味がある。著者が「どんな考えにも合理性がある」と強調しているように、たとえ自分には理解できない発言でも、その背後には相手なりの文脈や合理性がある。そこにきちんと耳を傾ける姿勢が、大切なステップと言えるでしょう。

間違うからこそ、新たな割れ目が生まれる

さらに印象的なのは、「間違うことによって、すましていた世界に割れ目が生じる」という一節です。うっかりミスや行き違いが起きると、一見ネガティブな出来事に思えますが、それによって“当たり前”が崩れ、世界の新しい部分が露わになることもあると著者は言うのです。

これは職場のハラスメント問題でも似たような構造がありそうです。ミスがあるからこそ、関係性の歪みや組織の慣習の問題点が浮き彫りになる。もしミスや違和感を完璧に隠し通していたら、組織の歪みはずっと固定化されたままになってしまうかもしれません。あえて言葉にして“ズレ”を共有することが、新たな理解へのきっかけを生むのです。

“保存”とは何を意味するのか?

世界の“欠片”は呼びかけを待っている

面白い表現があります。「生の断片や世界の欠片は、きかれることを待っている」というイメージです。天気予報がまだ来ない未来を一瞬だけ生きさせてくれるように、世界には触れられそうで触れられない無数の可能性が横たわっている。でも、それらは“呼びかけ”がないと存在を示せないまま消え去っていくかもしれません。

これをハラスメント問題に重ねてみると、被害者が“声を上げる(呼びかける)”ことで初めて表面化するケースが多いのと似ています。もし呼びかけがなければ、そこにある問題や痛みは“存在していないこと”にされてしまう。だからこそ、“消えゆく断片”にもう一度光を当てる行為こそが、“世界の適切な保存”につながるのではないでしょうか。

隠れることと、戻ってくること

一時的に見えなくなったものも、誰かが探しに来てくれる、呼びかけてくれるからこそ、再び表舞台に戻れる。それを「隠れることのよさは、戻ることができることだ。探しにくる人がいるということである」とも述べています。

人間関係でも同じです。疲れきって一時的に“隠れて”しまっても、誰かが迎えに来てくれると戻ってこられる。そして、それこそが“保存”の試みなのかもしれません。しかし、“探しに来てもらえない”状態にあればどうするこtもできない。だからこそ、「保存しようとし続けることが、消え去っていくことに抗うことだ」という姿勢が大切になります。

見ることは私を当事者にする

終盤に出てくる「見るだけで終わることはできない。見ることは私を当事者にする」という言葉は非常に示唆的です。たとえば、ニュースで悲惨な出来事を知っただけ、問題を“横目で見ているだけ”の状態でも、実はそれを“知った”瞬間、すでに当事者としての責任を帯びるのではないか、著者はそう問いかけています。

これはハラスメントを哲学する立場からも、強く共感できるテーマです。被害者を見かけたら、知らないふりをするのではなく、その問題にどう向き合うかを考え始める。そうした小さな行動が、世界の伏線を“適切に回収する”力になるのではないでしょうか。

世界を“保存”するとは、私たち自身が変わること

永井玲衣さんの『世界の適切な保存』が描き出すのは、一瞬ですり抜けてしまいそうな出来事や、日常の中でバラバラに漂う“生の断片”をどう扱うか、という問題です。伏線が回収されず、記憶は不完全で、それでも私たちは互いに呼びかけ、間違いを犯し、見ないふりをしきれない、そんな雑多な世界を、どう受け止めればいいのか。

私なりに言い換えるならば、「見過ごされがちなものを大切に守りたいと思う意志を持つこと、そしてそれを誰かと共有する試みを続けること」が、“世界の適切な保存”に近づく一歩なのではないかと感じます。ハラスメント対策の観点で言えば、見えないところで苦しんでいる人に“呼びかけ”を送り、隠れてしまった声や存在を探しにいく。そして、消えゆく生の断片、言い換えればSOSや不安を、組織全体として保存・共有できるかどうかが、職場の健全性を左右するでしょう。

雇用クリーンプランナーとしては、そうした“小さな伏線”に敏感であることで、ハラスメントを未然に防ぐヒントが隠されていると思います。もしあなたが職場や日常で“あれ、これって…?”と違和感を覚えたのなら、それはまだ回収されていない伏線かもしれません。ぜひ、そのまま放置するのではなく、“保存”という発想で向き合ってみてほしいのです。

最後に、本書の言葉を借りれば「適切な説明とは、言葉が用いられなくても立ち現れる」まさに、不安がらずにまっすぐ向き合うことで生まれる共感のかたちを、私たちはどれだけ大切にできるか。その問いを胸に、まずは身近なところから“小さな断片”に耳を傾けてみませんか?

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大田勇希|ハラスメントを哲学する【雇用クリーンプランナー】
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