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〝自分とかない人〟には東洋哲学しか勝たん!
【超訳】自分なんてない。自分とはからっぽである。そしてこの事実を恐れるのではなく、受け入れるよう。今日から生きることが劇的に楽しくなる
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この本は、東大法学部を卒業し「田舎の神童」だった著者が、「職」「家」「嫁」を失い、「一族の恥」として実家に戻ってきてニートになり、悟りに目覚めて執筆された本である。東洋哲学にある虚無感という概念を地でいくからこそ、生まれた書籍といえる。
ひとことで表現するなら「おとなはもちろろん、小学生でも笑って読める哲学書」である。思春期に直面する自分という存在、社会で生きていくとはどのようなことなのかという道徳、宗教・思想の歴史としての倫理的側面、あらゆる問題を抱腹絶倒で解決してくれること間違いなしの良書であるからだ。「13歳からのシリーズ」は人気だが、これは小学生からでもぜひ読んでほしい。
悟りとは「無我」
無我というのはじぶんがない。じぶんは、結局のところ食べたもので形成され、じぶん以外の存在があることで形成されている。
要はすべてはつながっているわけで「これがじぶん!」なんてものは存在しない。あらゆるものがじぶんであり、すべてが変わっていく世界のなかで「変わらないじぶん」なんてものをつくろうとするから苦しむのである。
この世界は空=からっぽ
「ミッキーマウスは存在するか?」と聞かれたらみんなの心には「いる」。でも実際には「いない」。いるともいないともきめられない、この絶妙な感じが空なのだ。なにより、世界はことばという虚構でできている。
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↑の画像を見て欲しい。同じ画像でもことばがひとつ添えられることで、その存在が急に尊いものに変わる。ひとはことばに縛られた存在であり、ありのままをみることがいかに難しいのかということに改めて気付かされる。
また、ことばをわけることで、人間は初めて認識ができるようになるが結局のところ、すべてがつながっている。これが縁起であり、真理である。米粒に宇宙を見るというのも実はど正論なのだ。
からっぽの哲学
人間関係が崩壊し、全てを失ったときに、あらゆる世界を、ありのままに見ることができるようになる。「空」の哲学をしらなければ孤立→自己嫌悪→さらに孤立という負のループに入り込んでしまう。
つまり、よけいなプライドをすべてとっぱらったとき、涙の数だけ強くなれる。岡本真夜はただしかったのだ。インドは空、中国では道(タオ)がうまれた。その中で荘子の「胡蝶の夢」が紹介されている。
荘子が夢の中で蝶になると、自分が荘子であるとは気づかないが覚めるとやはり荘子であり、自分が荘子なのか蝶なのかわからない。
夢が現か、現が夢か―現実と夢とが区別できないことのたとえだが、人生の現実を夢と観じつつ、夢も現実も二つながらに肯定する。ひとはスマホとリアルという2つの人格を生きていたりする。どちらが夢で、どちらが現実か。
すべは夢であり、現実である。ありのままでいることが最強なのだ。海は何もしない。ただ低いところにいてすべてを受け入れる。そもそも争いにならないから最強である。
よく考えてほしい。「敵」がいないということは最強なのだ(何もないところに旗印を立ててその領域No.1を認知させるということは実はマーケティング戦略においても最強の考え方だったりする。やはり荘子すげー)。
ことばを捨てると「空」がやってくる
結局、ことばなんてものがあるからふりまわされるんだ!5000兆円見たでしょ?本当かどうかもわからないそのことばの意味と重みに勝手に振り回されるからしんどくなる。
だったらそのことばを捨てればいい。ものごとがうまく運ばないときは、だいたいことばの呪縛にとらわれてしまっている。だって、そもそもこの世界はからっぽ「空」だし、いいも悪いもない。
さらに面白いのがことばを捨てると、今度は「空」のほうからやってくる。どうすればいいか?
結論、何もしなくてよい。「ただ、ひたすら信じる」だけ。社会的な死、人間関係の孤立、あらゆるものが消滅して立ち上がってくることから人生は始まる。ダメなやつほど救われる。それこそが東洋哲学の醍醐味なのだ。
さいごは大日如来になりきる
すべてはつながっている。わたしは宇宙、米粒も宇宙、ブッダも宇宙、すべてが宇宙。大日如来とはブッダが悟りを開いた状態だ。
つまり、この世界は縁起であるなら、わたしは大日如来そのものだ。大日如来と一体化するとどうなるか?お金とか名誉とかじぶんが固執していたものを突き抜ける。目の前の相手(宇宙そのもの)と一心同体化することに喜びを見出す。
それは相手の悩みに応えること、救うこと、人助けしたはずがじぶんが助けられるという究極の縁起にじぶんを見出すのだ。
あれ、最初にじぶんとはなにか?という話から始まったが、じぶんとはじぶんに、ない。本当のじぶんという邪念が消えて、相手のなかに見出してもらうことできもちいい感覚が生まれるということなのかもしれません。はい、合掌。
しんめいP、「教養としての西洋哲学」執筆してください!
しかし、2回読んでも、3回読んでも笑える。著者が3年半も熟成させただけあって深みが違う。このクオリティは、さすがに生成AIでも再現するには相当の技術を要する気がする。もし登場する7人の思想家がこの本を読んだらどう思うか?と考えるだけでも思わずクスり。
しんめいP氏には、ぜひ「西洋哲学」も出版してほしい。次は10年かかるかもしれないが待ちますよ。
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