歴史快道を自転車で往く#11
東海道
11) 有松宿〜池鯉鮒(知立)宿篇
しばし進むと高速道路の高架が現れ、その下を走る線路に沿って進んでいくと、突然、古い街並みに入り込んでしまいました。
おお、これが有松絞りで有名な<有松>なんだと珍しげに周囲を見渡していました。
かつて、京都に住んでいたときには、寺社仏閣は身近にあたり前にあり、わざわざ見にいくことはなかったように、この地域に暮らす人たちも有松にわざわざ来ないのでしょう。
さすがに街中は自転車で走れないので、ゆっくり歩きながら景色を眺めました。布や手作りの小物を販売するお店などが立ち並んでいて、歴史的な施設というよりも、町おこしの一環として賑わいを作り出している感じがしました。
街並みを外れ、幹線道路ち出てから進んでいくと<桶狭間古戦場>の石碑に遭遇。言わずと知れた、織田信長が今川義元を急襲して勝利した歴史的にも有名な古戦場。
中山道の時の関ヶ原古戦場と同じように有名ですが、実は古戦場跡地は2ヶ所あっていまだに論争中だとか。それぞれの言い分はあるようで、ボランティアの方にお聞きしたのですが…詳細は省きますが、かなり史実的にも、その後の状況からも、こちらの方が本物の古戦場のような気がして来ました。それにしてもボランティアのみなさんが真剣で、圧倒されるほどの勢いと地元愛に驚かされました。
東海道のスタートとしては、あまりにも見るべき遺跡、石碑、道標などがあったため、相当な時間を要してしまいました。もう少し先に進まないと計画が遅れてしまうので、急ぎました。
いよいよ国境、つまり尾張国と三河国を隔てる橋までやって来ました。1601年(慶長6年)東海道に伝馬制度が設けられて、程なく両国立ち合いの元、橋が架けられたそうです。
また名称が面白い。西寄り(尾張国)は板橋、東寄り(三河国)は土橋と名付けられ、やがて繋がった橋になって土橋になったとか。面倒くさいですね。
いよいよ本日の最終地点である【池鯉鮒宿】に到着。今では知立と書きますが、当時はまた当て字のように命名されていたようです。
と思ったら、「池鯉鮒」の名は知立神社の御手洗池にコイやフナが多数いたことに由来するということが、大あんまきの藤田屋さんのサイトでも掲載されていました。
池鯉鮒宿には古城があり、その跡地に市場が開かれるなどして賑わい、交通の要衝としても発展し、当時は本陣や脇本陣も置かれ、旅籠も多数並ぶほどの繁栄ぶりだったようです。
ここからいよいよ徳川家康の生誕の地である【岡崎宿】に向けて出発します。岡崎市は現在40万人以上の人口を抱える主要都市で、三河地域の中心として位置付けられています。そこにどれだけの歴史的な遺跡が残されているのか発見するのが楽しみになって来ました。
次回はNHK大河ドラマ「どうする家康」の舞台になった岡崎に行きます。
またお会いしましょう。
--- 次回、岡崎宿へ-----