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10代で渇望していたことへの葛藤

過去に満たされなかったことを、あえて大人になってからやるということはよくある。例えば、好きだったお菓子や当時、買えなかったおもちゃなどを大人買いするなどというのはよく聞く。それが分かりやすいものばかりではなく、精神的に満たされなかったものを埋める行為になると何かとややこしい。

例えば、当時、実家にお金がなくて、大人になってから大学進学をめざすなどというのは、前向きで、かつお金以外に本人が努力しなければ実現できない高度な行為だが、ブランド品の不必要なまでの大量購入など、周囲から見ていても何をしたいのかよくわからない事例もある。本人にとってみれば、過去に実現できず、惨めな思いをしたことがトラウマになっているのかもしれないが、客観的に考えると、それはブランド品を購入することによって埋められるものではなく、際限なく買い続けてしまう悪循環に陥るのではないかと心配になる。

いい大人が、自分のお金で好きなものを買うのは自由だと思うが、その人にとって最善の行為だと思えない。むしろ、その背景にある劣等感や失望感など、本来、本人が渇望している本質に目を向けるようにすることはできないのだろうか。

確かに、購買という行為は、高揚感が伴い、その商品価値が所有する自分の価値のように感じるのは否めない。しかし、大抵の場合は、モノを所有してまもなく消え去り、知らない間に使われずに放置されたり、あくまでも手段にしかならない。

所有することの意味は、他人からそれを追認されなければ継続しない。羨ましがれたり、何かしらの興味を持たれるなどがなければ、自己意識の中だけで高揚感を継続するのは難しいだろう。そして、自己満足さえも薄れていくようになれば、また新たなターゲットを探すために、ウィンドウショッピングを繰り返すことになる。

そう書きながら、私が10代に満たされなかったことは何かを考えてみたが、この歳になって何か足りないものと範囲を広げてみても、さっぱり見当たらない。大学時代には風呂付きのアパートを夢見たが叶わず、就職先も本来の希望ではなかったが、親しい友人たちに囲まれて、一通りに学生時代や独身時代を送ることができた。結婚してからも、パートナーから何かしら行動を制限されることもなく、子どもも授かり、今こうして心置きなく退職することもできた。

あなたは満たされた10代を過ごしたから後悔することがないのだ、と言われるかもしれないが、私にとって満たされるということは、他人から与えられるものではなく、自分が考え、行動したことがすべてなので、うまくいこうが失敗しようが、後悔のしようがないこれがもし、第三者から指示をされ、その行為を押し付けられていたら、例え、それが世の中の人が羨ましがるようなことだったとしても、私は後悔をしていたことだろう。

そう考えると、所有物や立場などで他人を羨ましく思ったことがないのは、自分の心が自立した自由な立場であったからかもしれないと、原稿を書きながらあらためて認識した。

世の中に蔓延るドグマのような混沌とした欲望を解決する方法を見つけたような気がする。

#いま時のジブン

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