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真面目に不真面目でしたたかであること

私が歩んできた道を辿りつつある彼らに
久しぶりに、かつての同僚たちと語り合う機会を得た。久しぶりと言っても年末以来だから、1ヶ月も経っていないのだが、時間を共有しないということが、これだけ時間軸を長く感じさせるものだということを初めて経験した。

昨日までオフィスで一緒に仕事をしていたかのように、屈託のない彼らの姿を見て、これまでやり取りしてきたことが間違いではなかったと思った。彼らを取り巻く状況は決して気楽なものではなかったが、その愚痴を述べるでもなく、前向きにどうしたらいいのかをお互いに語り合い、最終的には自分自身が舵取りをしていかなくては、大きな船とともに沈んでしまうということも重々承知していてくれて、自立した人間に成長していることを実感できた。

その一方、年頃の娘との向き合い方や学費のことなど、私が10年前に悩んでいたことを、同じように悩む年齢になっていることもわかった。人間が辿る道筋など、そんなに大きく変わることはないというのは、この世の中がまだまだ変化の途中であり、旧態依然とした体質の中で、前例に従いながら、親としてやるべき義務を負わされているということなのだ。高額な学費のために、少なくとも数年間は貯金を取り崩していくのだろうが、それが終わった後、自分たちの老後のためにどうやってお金を残すべきかも、私の経験から話をしておいた。

人生のまさかに慌てず逆らわずに
彼らは40代だ。まだまだやるべきことがあることは重々承知しているが、そろそろ自分の人生に“変化の波”を起こさないと、このまま時が流れて、気がついた時には60歳に向けての歩みが始まる50代に差し掛かる。

現在、会社の中では安定した立場であり、役職にも就いていて、何か不安があるわけではないので、いちいち外野から声をかけることもないかもしれない。ただ、例えはあまりよくないかもしれないが、ここ何年かの間に発生した自然災害は、当たり前の日常をいきなり変えてしまったことを思わずにはいられない。「まさか」の出来事が自分自身に降りかかってこないとも限らないというのが私の持論なのだ。

私ごとではあるが、父親と弟を早くに亡くしている。彼らが病気だったわけでもなかったのに、突然、この世を去ることになった。こういう極端なことばかりではなくても、会社が倒産して退職せざるを得なかったり、家族が病気になったりなど、人生が何事もなく過ぎ去って、寿命を迎えることのほうが奇跡に近い。外から見るよりも、それぞれの家族は何かしらの問題を抱えており、それに対処しきれなくなってから問題が表面化するものだ。

分かりやすい人になるべからず
私とて、もうそういう悩みの時期は過ぎ去った、などと思ってはいない。彼らを客観的に眺めているだけでいいとも思っていない。私とて、これから“老い”を含めて、自分の起こり得るさまざまな問題に対処していかなくてはならないと覚悟しているが、彼らはまだその山を登っている最中だ。できれば少しでも、あらゆるケーススタディに対処できる能力と資金、そして精神的な落ち着きを取り戻すためのサポートができればと思うのだ。

最近では、人のことを「真面目」だと評価することに抵抗がある。むしろ、「真面目に不真面目」であったほうが、余白があっていいのではないかと思っている。その最上位が「したたか」である。漢字で書くと「強か」となってよりわかりやすい。ただ、この「したたか」は、周囲の人からすると、あまり良い評価とは言えないのかもしれない。それはその人の言動の本筋が分からないから。

だが、分かりやすい人間ほど、騙されやすく、他人の問題を抱え込み、自分の時間を奪われていく典型的なパターンだと思う。だからこそ、外からは分かりにくく、でも一生懸命で、そこにしたたかさも兼ね備えている、というのが一番いいのだ。

そんなことをエピソードを交えながら彼らに話しているうちに、自分が壁にぶつかりながら歩んできたこの20年を、頭の中で振り返っていた。結局は、自分で経験して、痛い目にあって、それを乗り越えないと、実感できないだろうな、と。やはり人生は難しい。

#人生の区切りを迎えて

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