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歴史快道を自転車で往く#12

東海道
12
)知立〜安城〜岡崎へ

前回の知立(池鯉鮒)宿までの旅で、今まで知らなかった三河地域までに至る史実に触れることができました。この地域に住んでいるのに、以外に三河地域というのは縁がなく、用事があっても電車で移動してしまうので、なかなか周辺にある遺跡などを見る機会はなかったなあ。

▶︎知立〜安城〜岡崎/GoogleMapより

早速、知立(池鯉鮒)宿から国道1号線に出て進んでいくと、それはそれは、見事な松並木の道に遭遇します。これまで中山道や美濃路を旅してきましたが、これほど松並木が残っている場所を見たことがありません。まさに東海道がそのまま現代に甦ったよう。

もちろん、当時の松の木ではありませんが、沿道の住民の方々が苗木を植え、ていねいに手入れをされて、育ててきたのでしょうね。むしろ往来する車を効率的に進めるには、伐採した方がいいのでしょうが、それでも松並木を残して街の景観を大切にしたいということかな。

三河知立駅を越えて少し進んでいくと、これまた立派な一里塚が現れてきました。<来迎寺一里塚>と書かれた石碑があり、こんもりとした緑の塚の上に、松の木が植えられていました。ここから少し進むと、まもなく安城市あたりへ。

来迎寺一里塚

安城あたりに到着。実は安城というのは、徳川家の先祖様が治めていた土地だったようで、お寺や道標がいくつも見かけられ、古くから交通の要衝だったことがよく分かります。

この近くに<無量寺>があるようで、その道標と案内板がありました。国道1号線と並行して走る東海道は、今では住宅街になっていましたが、時代を問わずさまざまな石碑や案内板が立っており、いにしえから交通の要衝であり、多くの人々が行き交っていたんでしょう。

元禄の道標 案内板
無量寺の道標
和志王山薬王寺

奈良時代に創建されたと伝えられる由緒あるお寺です。ご本にの薬師瑠璃光如来はー七年に一度開帳される秘仏として本堂に納められています。
この寺に伝わる薬師如来縁起によると、尊像は、和銅年間(西暦七〇八年~七一五年、奈良時代初)に、(現在の宇頭南町にあった)神の御手洗御堂の池から光を放つこの世現れになった。この地に住んだ豊間弥長者が念持化とされたが、後に僧栄基を開祖として和志王山薬王寺を創建され納められた。そして、子孫代々相
時は経つて淳秘天皇天長六年(西暦八二九年、平安時代)春に意が流行した。
長者の子も重い疱瘡を病んだ。そこに、何処からともなく僧が現れた。瑠璃の瓶から取り出した薬を子に含ませ、子の五体をさすると病は癒えた。僧は子が遊んでいた鉄輪を貰い受け、首にかけて退出され忽然と消えられた。長者は薬師のご利益と気つき尊像にお参りすると、御首に銭をかけ、お身体には疱瘡の痕が残っていた。長者は、わが子の身代わりになられた尊像をますます敬された。
さらに時が経ち、天文一八年の戦い(戦国時代、西暦一五四九年にあった織田信秀と今川・松平の安祥城を巡る戦い)に寄り寺は焼かれ、長者の子孫も絶えてしまわれた。
元和二年(西暦一六一六年、江戸時代初)四月、村人たちが豊阿弥長者らの墓を、この地に移そうとした際に、土中より細首に銭をかけた尊像を掘り出した。不思議なご縁を感じた村人たちは心を合わせ、細堂を造営した。このように記されています。
なお、薬王寺本堂は、古墳時代中期の前方後円墳、子頭大塚古の後円部に造られています。今は後円部以外削られ、原形を留めていません。昭和三四年岡崎文化財研究会の調査によると、その規模は、膨浸を含めた全長約七〇メートル、後円部径約三〇メートルと推定されています。
和銅年間にこの地に住まわれた豊崎弥長者は五十狭城入皇子(別名 気入彦命)の子孫と伝えられたいます。古墳時代中期(五世紀)にこの地に勢力のあつた皇孫の古代豪族の子孫が、奈良時代に和志王山薬王寺を建立されたと考えられます。古い歴史を持つ宇頭町の人々が先祖代々崇敬し、お守りしてきた、町が誇れる文化財、それが薬王寺と宇頭大塚古墳です。
平成二十三年十月吉日 宇頭町

その後、名古屋鉄道名古屋本線と並走するように東海道を東へ走ると、そろそろ岡崎城が見えてくる頃です。その手前の、矢作川に架かる矢作橋<出合之像>があります。

出合之像

これは近年に造られた石像ですが、木下藤吉郎(豊臣秀吉)と蜂須賀小六正勝が初めて出会った場所だと書かれていましたが・・・どうやら想像上の話をベースに造られたのでしょうね。そりゃ出来過ぎだもんで(三河弁 ^o^

矢作橋

さあ、矢作橋を渡れば、そこはもう岡崎宿
今回は道中に見どころがたくさんあったとので、岡崎宿の紹介は次回ということにさせていただきます。

--- 次回、岡崎宿〜藤川宿へ-----

#歴史快道を自転車で往く


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