歴史快道を自転車で往く#02
中山道
②垂井宿〜関ヶ原宿篇
前回は垂井駅まで走ったので、JR鵜沼駅まで自走。そこから輪行して高山線に乗り込み、岐阜駅から東海道線に乗り換えて垂井駅に戻って再スタート!
前回の旅で思ったは、高校1年生の時に衝動に駆られた“旅に出たい”という思いを、何故、一度きりの自転車旅で終わらせてしまったのかということ。暗闇の中をただひたすらに自転車を漕いで西へ進み、琵琶湖の風景を眺めて、ようやくここまで来たのだという感慨に浸ったはずなのに…。
たぶん、帰ってからの日常があまりにも変わらなかったから。自分も、周囲も、何もかもが元通りで、行動すれば何か変わるのではないかという甘い期待が、現実に戻ったから…かも知れないなあ。今はもう知る由もありません。
---- 閑話休題 ------
さて、今日は、できれば【醒井宿】まで走って行って、岐阜県と滋賀県の県境を越えて、普段見ることのない景色が見たいと思っていましたが、さすがに全国的に有名な【関ヶ原宿】だけに見どころがあって、写真も資料も多くなってたので、たっぷり紹介したいと思います。
まず、その起点になる【垂井宿】に向かおう!
→→→ 【垂井宿】へ
■美濃街道との分岐点・ターミナル垂井
JR鵜沼駅から岐阜駅での乗り換えだけだと思っていたら、大垣駅でも乗り換え発生。電動アシスト自転車は便利だけど、重たいのが玉にキズ!乗り換えの時の、階段の登り降りだけで疲れました😓
ここまでの所要時間は乗り換え含めて約1時間ほど。結構、時間はかかりましたが、天下の濃尾平野は広いですね。みるみるうちに高い建物がなくなり、田園風景が広がりはじめて、程なく垂井駅に辿り着きました。
垂井駅から美濃街道との“追分”に向かいます。京都方面から来た旅人たちは、ここを起点にして、美濃街道を南進して名古屋方面、もしくは東海道や飯田街道に向かうか、東方面にむかって中山道に至るかの分岐点として重要なターミナル宿場だったのです。そりゃ栄えるわけだ。
私は京都方面に向かうため、この追分を西に進めます。相川橋を渡って「まつざかや」の看板が見えたら【垂井宿】への入り口。ご多聞に漏れずシャッター街でしたが、中には歴史と優雅さを併せ持った建物も見られ、かつての繁栄が窺えました。
垂井宿に来たら、やはり立ち寄らなくてはいけないのが【南宮大社】だ。美濃国一の宮・南宮大社は、慶長五年(1600年)に焼失。その後、寛永十九年(1642年)、三代将軍徳川家光公によって再建されたとか。南宮大社は金属の総本宮として、全国の金属業・鉄鉱業・鍛冶の関係者から厚い信仰を集めているらしい。
→→→ 【南宮大社】へ
またまた中山道に戻って西に進みます。商店街を抜けた先に出てきたのが〈垂井宿 西の見附〉。歌川広重が描いた「木曽海道六十九次」には、ここから西側あたりを描いています。
今回見た一里塚の中で、こんなに立派に遺跡として存在しているのは、見たことがありませんでした。こうやって自転車で走っていると分かるが、昔の旅人たちにとって距離の目安があるのは、精神的にとても助かると思いました。
そして、東海道線と国道21号線と交差している中山道を走り、広がってきた道を【関ヶ原宿】に向けて進んでいきます。
→→→ 【関ヶ原宿】へ
■いざいざ決戦の地・関ヶ原
やがて道が狭くなり、民家が立ち並ぶ地域に入ると、そこはまさに【関ヶ原宿】。古い家屋が多いが、街道筋の街並みがしっかりと残こされていて、住民たちの日常生活がそこにありました。
ということで、これから滋賀県内に入り、そのまま【柏原宿】や【醒ヶ井宿】に行くのですが、この続きは次回をお楽しみに😊
--- 次回、今須宿〜柏原宿〜醒井宿へ-----