発せられる言葉の意味
知らないことは恐ろしい。そういわれることが嫌で、懸命に本を読み漁った日々が懐かしい。失われた時間を取り戻すかのように、これでもか、と詰め込んで、何となく自分のものになり始めたと思えるようになった。つねに考える、そして相手の考えることを察知する、など、日本人らしい心配りも忘れないように心がけてきたつもりだ。どんなに頭の回転が早くて、どんなに知識があったとしても人の心が理解できなければ、それは不完全といえる。
それは、今日、いきなり起こった。まったく予想もしていなかった出来事だった。“井の中の蛙”という言葉が、これほど不親切に、そして不適切に使われた例を、私はほかで見たことがない。それほどひどい言葉だった。単なる言葉の知識は、使い方次第で両刃の剣になるということだ。簡単にいえば、私たちのような弱小な立場では何もできるはずもない。経験も少ないしね、と。その事実は事実として甘受しよう。しかし人間としての尊厳は、大企業にいようが中小企業にいようが、関係のないことだ。むしろ、そうやって利用していることを考えれば、人間としての礼儀をわきまえていないことになる。なんと失礼なこと。そう思わざるを得ない。
たぶん、本人の胸ぐらを掴んで“なめるなよ!と一発かませば、そんなつもりはなかったのです、と弁明することはわかっている。そんなに根っこが腐っている人間だとは思わないから。しかし、言っていいことと悪いことがある。やっぱり一度、横っ面をひっぱたいてやるべきだったか。以前も同じようなことがあったが、弱小代理店に働く人間も、お前たちのお客だということをわすれるな、と思ったものだ。社会の底辺に生きるわれわれにも、人間としての尊厳がある。お前らごときにそんな扱いをされる所以はないぞ。思い出すたびに腹が立つ。
知識があることと、それを使うことは別のことだという話が身にしみて理解できる。これは自戒も込めて考えるべきだ。知っていることが偉いのでも何でもない。言葉の意味や本質を理解し、適切に使うことで、人間関係をスムーズにしたり、また相手を慮ったり、そして合理的にものごとをすすめていく材料にする。そして生活に潤いを与え、お互いの感性を刺激しあうために会得するものだ。まさかそれがあだになっているとは夢にも思っていないだろう。そんなことに気がつく人だったら、その時にそういう例えをいうはずがない。天下の大企業が泣くぞ、おい。しかし、よく考えれば、わたしも立場が違えば、そういうことをいわないとは限らないのだ。
言葉は本当に恐ろしいものだと、自分が身をもって経験したと思えばいい。まずは言葉を発する前に、よくよく考えてから発言すべきだと思う。本当の自分の気持ちを言葉にすることは、大変なことだと思ったほうがいい。知っていながら、知らないふりをすることはずるいことだが、人は知らないほうがいいこともある。
欧米の合理的なものごとをはっきりさせる考え方は、ある意味で意志の明確化ということでは意味はあるかも知れないが、それが世界基準だなんておかしな話だ。人の気持ちを察する、人に迷惑をかけずに生きてきたわれわれ日本人の心の美しさは、どこの文化よりも優れているし、大人の社会だと思う、潔さや真摯さ。真実だけがすべてだという、美しさを持ち続けていたいと思う。
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たぶん、大企業のクライアントから言われた
ことに対して、憤っているのだろう。
いつも以上に感情的な文章になっている。
会社組織にいれば
社内でも日常的に行われていることだろうが
外部の人間からすると免疫がないのだ。
私は組織の中では
できるだけ刺激的な言葉は避けてきた。
相手も自分も感情的になったら
話が前に進まなくなるから。
本音を言わないことに最初は悩んだが
結局、それぞれの立場で
それぞれの言い分があるわけだから
妥協点できる第3の道を選んできた。
結果からすれば
自分にとっては周り道をすることに
なったのではないかと思う。
バランスを取って
良い方法を考えてくれる人というのは
便利な存在だが
いざ自分の意見を貫きたいときに
それまでの私のイメージを壊さなければ
ならなくなった。
面倒なことだ。
これからは
自分に正直に生きていくことを決めた。
とても清々しく気持ちいい。
#あの頃のジブン |21