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#ちょっと気になる汉语 我在風里孤身一人
我在風里孤身一人
Wǒ zài fēng lǐ gū shēn yī rén
▶︎私はただ一人、風の中にいる。
台湾を訪れた時、多分、どこかのお店の中に掲げられていた額縁かポスターに書かれていた文字を、うろ覚えでメモしたので、原文通りか分からないが、とても印象に残った言葉だった。
それぞれ家族や職場、学校など、自分が所属するコミュニティがあって、そこで自分の存在感や役割を理解して、それぞれの務めを果たしているのだが、ふと、自分という存在の現実性というものが分からなくなる時がある。
一人ひとりは大切な存在ではあるが、その人が突然、いなくなったりした時、驚きや戸惑いはあるかもしれないが、いつしかそれが普通になり、そして、そこにいたことさえも忘れ去られてしまうことになる。
それは寂しいことなのだろうか。
それは悲しいことなのだろうか。
私は30年前に弟を亡くしたとき、もちろん、家族も含めて途方に暮れ、悲しみに打ちひしがれていたが、職場に戻ると、当たり前のことだけど、何も変わらない日常がそこにあった。
弟を失った悲しみよりも、人の命が消えても、何も変わらない日常が悲しかった。
仕事をしている途中で、思わず涙が流れた。
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今も終わることのない戦争や紛争が人々の命を奪い、日々の通勤の中で、人身事故が当たり前のように発生し、大切な命が奪われてしまう。そして、この豊かな日本で、年間2万人の人たちが自ら命を落としている。
誰もが、ただ一人、風の中にいるのだ。
どんなに親しい人も、どんなに大切な人も、そこに存在することはできない。だから、自分の存在を証明するためには、他人ではなく、あくまでも自分自身でなければならない。
そのようなメッセージが、国を超えてやってきた、時間をともにしたことのない、日本人である私に伝わってきたのが、とても不思議だった。