この世の中のしくみから外れて生きること
今日、テレビでタレントの武井壮さんの特番を観た。
幼少の頃、両親が離婚して、一緒に暮らしていた父親も家には帰ってこなくなって、そして、唯一の兄弟である兄をガンで失った。
私がnoteに何度か書いてきた自分の生い立ちみたいなものが、生半可に感じられただけでなく、両親から見捨てられたという壮絶な過去を、躊躇なく語る彼の表情には憐憫さがなく、むしろ自分で道を切り拓いてきたという自信に溢れていた。
それまでの彼の人生は、この世の中でどうやって生き残るかが目的であり、生き甲斐とか、働きがいとか、将来の夢だとかなどという甘っちょろいものでなく、少しでも気を抜けば、奈落の底に突き落とされるという壮絶な状況だ。一人の人間が生きていく重みが伝わってきた。
まあ、そこまでならば特別な人生を歩んできた彼に、これから幸せになってもらいたいなどというセンチメンタルなオチになるのだが、そういうことではないところに引き込まれた。
彼がこれからの人生についてインタビュアーに聞かれた時に、「これからようやく自由に生きることができる」と言ったのだ。最近では外国の映画にも出演するなど、タレントとしてさらなる飛躍を目指す言葉が出てくるのだと思ったら、いきなり「自由に生きる」という言葉が出てきて、それがとても衝撃だった。
それは、私もまったく同じ心境だったからだ。
そこからいろいろと考えてみた。そもそもこれまで何のために働いてきたのだろうか。新卒時にはマスコミ志望で、その端っこに潜り込んで、時代のコミュニケーションを作るなどといきがり、そして個人事業主になって他人とは違う人生の特別感を演出し、ついには縁もゆかりもないメーカーの取締役としての勤めを果たしてきたが、それは一体何だったのだろうと。
もしかすると、
「自由に生きる」ためにお金を稼ぎ、
「自由に生きる」ために地位を得て、
「自由に生きる」ために家族を養い、
そしてようやく今、「自由を手に入れた」ということだったのではないか。
そう、働くことが目的だと思っていたが、自由になるために、仕方がなく働いていたのかもしれない。いや、きっとそうに違いないと思ったのだ。
武井壮さんも、きっと同じだったのだと思う。生きるために「仕方なく」働いて、しかも生きるために「仕方なく」お金を稼いだのだ。仕事のスキルを徹底的に磨き上げたのも、最短で「自由に生きる」ためにやむなくやったことに過ぎない。だから、多くの人がチャンスだと考えるステージを、惜しげもなく降りることができるのだ。私もまったく同じだ。その場所や機会は、多くの人たちにとって魅力的でも、私には何の価値も見出せないものだった。
久しぶりにバイクに跨り、関ヶ原古戦場に向かった。そして、石田三成の陣跡から徳川家康が陣取った桃配山を眺め、三成は何のために戦ったのかを考えてみた。そうか、彼も同じように自由に生きたかったのだ。天下なんて必要なかった。ただ、自分を取り立ててくれた秀吉の恩だけが彼を突き動かしたのだと思う。
もう十分だ。
この世の中のしくみから外れて生きることで、役に立たない、役割を持たない、意味のない人間になって、本当の意味で誰からも束縛されない自由な人間になる。
彼の迷いのない表情を見て、僕もあなたと同じだよと、心の中でつぶやいた。
#いま時のジブン