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歴史快道を自転車で往く#08 美濃路_ 起~荻原~稲葉~清州篇
前回食べたつけ麺が合わなかったのか、お腹を壊して体調不良だったため、期間が少し開きました。
美濃路篇になってから街中を走ることが多く、なかなか思うように距離が稼げなくなりました。信号では停まらなくてはならないし(当たり前だ)、自動車に邪魔者扱いされるし(被害妄想?)、快適な道のりとは言い難い状況に心が折れそうになりました。しかし、西半分とは言え、京都まで走破したことが自信にもなり、こんなことでめげていては…と心を奮い立たせて前に進みます。
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またまた堤防沿いまで戻ると、天気も良く雄大な木曽川の流れが私の帰りを待ってくれているようでした。
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濃尾大橋の愛知県川をぐるっと旋回して、橋の下をくぐる道を発見!ここを抜ければ【起宿】に到着です。
それにしても、こんな狭い道路を何台もの自動車がすれ違ったけど、ここはそれだけ大切な生活道路ということなんだと実感しました。
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街道筋の宿場の雰囲気は、若干、歴史的な風情を残しつつも、やっぱり住宅街としての顔がメインで、古い建物の横に真新しい住宅が建っているなど、混在した街並みになっていました。
それでも脇本陣跡には資料館のような施設もあり、当日は来場者で駐車場が満車でした。
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同じようなクネクネした道を進むと、富田という地域にたどり着きました。ここには、中山道でもあまり見ることができなかった、立派な一里塚が、大きく太い木🌲と一緒に整備されて石碑が建っていました。
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美濃路はかなり寸断されていて、大きな通りを縦断するように進まなくてはならず、Google先生を頼りにしながらも、行っては戻り、戻っては行き、を繰り返して、かなり時間をロスする羽目に会いました。
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少し落ち着いた住宅街に入ったと思ったら、そこは【萩原宿】でした。ここは完全な現代風の住宅街で、遺されていた石碑も近年に造られたもののようでした。
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曲がった道やクランクのように直角に折れる道など、街中の宿場町で、中山道の守山宿に似た雰囲気が漂ってるいます。
稲葉宿本陣跡は資料館のようになっていて、この石碑から直角に道が折れて、美濃路は続いていきます。
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さあ、ようやく国府宮にたどり着きました。
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国府宮(こうのみや)と言えば、はだか祭り。
私は祭りをテレビでしか観たことがなく、ふんどし姿の男たちが揉み合う勇壮なビジュアルが印象的です。
「国府宮はだか祭」の正式名称は「儺追神事(なおいしんじ)」と言うそうです。
今から約1250年前、奈良時代の神護景雲元年(767年)称徳天皇の勅命によって全国の国分寺で悪疫退散の祈祷が行われた際、尾張国司が総社である尾張大國霊神社においても祈祷をしたことに始まったと伝えられています。
尾張地方に春を呼ぶ祭りとして定着したこの神事に、裸の寒参り風習が結びついて、現在のようなはだか祭の形態は江戸時代末期のこと。
(稲沢観光協会ホームページより抜粋)
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荘厳で勇壮な祭りが行われていることを想像できないほど、辺りは閑静な住宅街でした。近くにはマンションが立ち並び、美濃路を案内するように擬木とチェーンの柵が綺麗に並べられていました。
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いよいよ清洲宿へ。ここは織田信長が 「本能寺の変」で討たれたのち、後継者を決める清洲会議が開催された清州城のあるところ。残念ながらお城の写真は撮れなかったが、かつての繁栄が窺える街並みでありました。
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現在のお城はもちろん後世に建てられたもので、少し作りモノっぽい感じがして、私はあまり好きではないが、新幹線で関西方面に行く時に車窓から見える姿はなかなかよいと思います。
ここに五条橋があるが、次回の名古屋・宮宿篇でも同じ名称の橋が出てきます。これは、清州越しという首府移転に伴い、町名や橋の名前なども移されたということに由来するらしい。どうやら、こっちが本家本元のようです。
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かつてお城があった場所はここだったのか?
次からいよいよ名古屋市内を走っていくことになりますが、これまで以上に自転車には過酷な状況が続くのではないかと心配になります。
でも行くしかねぇ。進むしかねぇ。真っ直ぐ行けよ、行けばわかる、という彼の言葉を思い出して行こうと思っています。
--- 次回、名古屋/宮宿へ-----