人生の区切りを迎えて#20 僕が本当にやりたかったこと
■自分が本当にやりたいことって?
いきなりだが、ある占いを見ていたら、今年から来年にかけて、自分が本当にやりたいことが実現すると書いてあった。僕の本当にやりたかったことって、一体何だったのだろう。そう思い続けてもなかなか答えが出てこなかった。
これまでの10年間、やるべき仕事に使命感を持って打ち込むことができたし、それなりの達成感もあった。裁量も年々増えていって、自己資本だけではできないことにも挑戦できたし、周囲の人たちとの関係性もこれまでに経験してきたそれよりも格段に深く、今後、プライベートでも関係性を続けていくことができると思えた。収入面においても家族が生活していくのに十分な額をいただくことができたし、それを自分のモチベーションにすることもできた。
こうやって書き連ねれば、“自分が本当にやりたいこと”ができなかった、というのが納得できず、まあ、巷にある誰にでも大体当てはまるような内容だろうと放っておいた。でも、何故か自分の心の奥底にその言葉が引っかかっていて、作業をしていても、ふとそのことを思い出し、俺のやりたかったこと?なんかあったような気もしないでもないなあ、などと、うっとくしく顔の周りを飛び回るハエのように、私にまとわりついてきた。
■自分ではなく他の誰かのやりたいこと
それが突然、こうだったのではないかという確信に変わった。ある人に、自分の現状と今後のことを報告する形でメールを送ったところ、彼から返信が届いた。これまでの勤めに対するねぎらいの言葉とともに書いてあったのは、「ようやくやりたいことができるようになりましたね」という言葉だった。
正直、ドッキリした。
心が、ざわざわした。
彼曰く。誰かが実現したいことを、私が率先して肩代わりしていたというのだ。直接、肩代わりなどという言葉は使われていなかったが、私にはメール本文からその意味がはっきりと読み取れた。つまり、一生懸命にやっていたことは、誰かが実現したい理想であって、私が能動的にやっているとは思えなかった、という指摘だと感じた。
実は肩代わりしたと書いてました💦
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どれだけ否定しようが、外部から客観的に見ていた人にとっては、違和感があったのだろう。そもそも、そういう分野への興味があったのかと言われれば、そうではない。でも仕事だから、と思い込んで、いつしかその仕事が自分のミッションになり、その対価として報酬が与えられたというのが正しい解釈だと思う。
■人生に無駄なことは一つもないのだ
今ごろ気が付いたって、後の祭り。過ぎ去った日々は取り戻せないし、世の中的に言えば、いい人生だったんじゃないのと、むしろ褒められるところだろうが、見ている人は見ているのだなと思った。
自分のことは自分が一番よくわかっているなんて、ドラマなどでもよく聞くセリフであるが、結局、自分が一番自分のことをわかっていなかったなんて、思いもよらなかった。でも待てよ。もしも、この10年の経験がなくて、ある日自分のやりたいことがわかったとしても、実際にそれができたか、できたとしても上手くいったかはわからない。たぶん、できなかったのだろうなと思い直した。
反省して人生がやり直せるならばやるけども、どう足掻いても、時計の針は進んでしまったし、取り戻すことはできない。むしろ、ここで気はついてよかった。そして、やろうと思えば、これからでもやることができるということにも気が付いた。ある意味、失敗がなければ気が付かなかったし、やってきたことが無駄だったとは思っていないから。
でも他人の何気ない一言で気がつくなんて…まだまだ人間としても未熟で、未熟だからこそ成長しようという意欲も湧いてくるというもんだ。2024年を締めくくり、2025年に向けて歩みを始めるには、本当に良いきっかけをいただけたなと、とても清々しい気持ちになっている。
———編集後記———
これまで何度
部下たちに自分のやりたいことを
求めてきたかと思うと
あらためて恥ずかしくなる。
自分では自分のやりたいことを
理解した上で仕事をしているが
同僚たちはそれがないと…思い込んでいた。
思い返せば
31歳の時に大企業を突然退職して
個人事業主としてスタートしたとき
私は自由を求めていたのだ。
自由というのは好き勝手と違い
誰かの指示を受けるのではなく
自分の能力や判断に基づいた仕事をして
それを第三者に評価されるということ。
あくまでも自分が主であり
それをどこまで追究できるかが
テーマだったはずだ。
でも家族がいることや
世間一般の見られ方というものが
いつしかその尖っていた角を
ポキッと折ってしまったのかもしれない。
こんな弱っちー僕に神様は
もう一度やってみなはれと
チャンスをくれたのかなと。
今度こそは肩肘張らずに
やってみたい。