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センスと根気強さ、そして運の良さ

今日は一転してさっぱりと。暑さに参ってしまい、何かを考えるということを拒否したくなる、そんな一日でした。今日は7月最後の日。ようやく初入金があり、私のフリー生活もようやく生活の糧を生み出していることを証明し始めたわけです。それにしても4ヶ月もかかるとは、世の中の厳しさを実感しています。それでも希望だけは捨てずに、前向きになって頑張りたいですな。

さてさて、そんなことをしているうちに、予備校から面接のご案内がやってきた。どうやら一次試験は通過したようで、次が面接を2次面接。なんとか食い込んでいければ、かすかな光が見えてきそうな気がする。いままでそんなことを想像もしなかったのに、思った瞬間に新聞広告が入ってくるなんて、それだけでも運命の糸を感じずにはいられない。だいたい、新卒で入社した会社も就職部の掲示板にひっそりとあった情報だし、新聞社などは自社の社員募集にもかかわらず目立たない囲み記事広告だった。そう思えば、今回も同じようなシチュエーションが見えてくる。果たしてこの広告業界から手を引き、まったく新しい教育界に足を踏み入れることができるかどうか。これが60年に一度の転換期。たぶん、最後の悪あがきともいえるかもしれない。

それでも今回は違う。あきらかにいままでと違う路線をいこうとしている。それは請負者から発信者に変わるということだ。受注するための営業ではなく、助けを求めてくる人たちへ自分のもっているスキルを使ってコンサルティングすることになる。こんなことはいままでの経歴の中ではあり得なかったことだ。たぶん、このまま広告業界にいても、こういう形はあり得ないだろう。

友人のデザイナーさんが通っている「コピーライター養成講座」は、どうも性格的に合わない気がする。コピーライターというのは養成されるものではなく、センスと根気強さ、そして運の良さしかない。このコピーのどこにセンスがあるのか教えて欲しいと思うものばかりで、何とも釈然としない。前回の課題にカルピスのキャッチコピーというのがあったが、先生が選んだいち押しが“水のおいしい国の~”だとさ。おいおい、日本の水がおいしいなんていつの時代の話しだ。確かに水道水がそのまま飲める国は日本ぐらいだろうが、それをおいしいとは…。いまどきどこでもミネラルウォーターだっちゅーの。まあいいか。感覚で生きているコピーライターに明日はない、とだけ言っておこうか。

その点、小論文は人間そのもの、社会そのもの。そして都合のいいように繕った人間のあざとさを映し出す鏡みたいなものだ。そういうことをされると困る人がいっぱい出てくる、はず。そんなへ理屈こねくり回し屋さんは…と泣きが入ってくる。最高!ようやく自分の考え方を正直に話してもよい土壌ができるようになる。

確かに論理ばかりでは疲れそうな気がするが、世の中はそんなアホではない。適当に遊びを設けるはず。要するに第一に感情ではなく、論理が先行するようにしたい。そういう人材を増やして、できるだけ速やかに仕事がやりやすい環境をつくっていきたい。経験も大事。でも経験よりも新しいしくみを作り出す方がもっと大切なことだと若い人たちに知らせたいから、こういう仕事につきたいと思ったのだ。時間はそんなにあるわけではない。自分の感覚がまだまともな状況のうちに手がけていきたい。その思いが空回りしないように、とにかく自分なりに勉強して備えたい。人間こそ一番いとおしく、そして面倒くさい存在だ。だからこそその人間を成長させるようなことを仕事にしたいと思う。

さて、ようやく始まりますよ。

*****

予備校の小論文の添削作業を始めたが
現実はこのような状況には至らなかった。

小論文も世の中の仕組みに組み込まれており
論理的な議論ができるどころか
仕組みの中にどう適応させるかが大切だった。

小論文の評価も講師と意見がぶつかった。
私としては筋が通った内容だと判断したが
むしろ逸脱していると訂正を余儀なくされた。

こんなに正反対な意見になるなんて。
知り合いのライターたちに聞いても
私の意見の方が筋が通っていると言われたが
結果として大学側の意図が違うとの判断で
修正を繰り返した。

その後はそんなにズレることはなかったが
それはむしろ私が予備校の考え方に適応して
しまったからではないかと思っている。

私もフツーの人間だったのか。

いやそうではなく
フツーになろうとするとセンサーが働き
山を谷を作ろうとしてきたことは確かだ。
フツーのくせして
ときどき無性に納得感がなくなって
爆発するかのように飛び出してしまう。

それを繰り返すことができただけ
運が良かった。

#あの頃のジブン |52

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