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人の価値観に触れることができる学び

今月、5年間続けてきた中国語のオンライン授業を休会した。こんなに長く中国語のレッスンが続けられるなんて、当初は思っていなかった。その偶然が、この5年間、学び続けるモチベーションになったことは間違いない。C先生との出会いだ。

最初は何人かの先生の授業を受けて、相性や教え方などが自分に合うかを試すのだが、2回目か3回目に担当してもらったC先生の授業を受けたとき、不思議な感覚を覚えた。どういう感覚かを言葉で説明するのが難しいが、まるで同じ国で、同じ時代を過ごしてきたかのような感覚に出会ったとしか言いようがない。この歳になると、日本人でもなかなかこういう感覚の方とは出会うことができない。

これまで英語を含めて外国語を学ぶ機会は何度かあったが、その先生方とは、時代も、価値観も、その人なりの考え方も、すべてが異国のものであった。だが、C先生は違っていた。同じアジア人であることも大きいのかもしれないが、そのすべてが異国のものには思えなかった。むしろ、そういう同じ感覚であることに対して違和感を感じたくらいだ。

先生の経歴として、中国本土で教員をされていたことが分かり、なるほど、その言葉の持つ意味や成り立ちまで説明できるのは、中国語を体系的に学び、学生たちに教えてきた人であるからだろうと、勝手に結論づけた。これから中国語を学んで社会に出ようとする人たちに、中国社会で生きていく上で必要になる言葉の力を教え続けた結果、その先例となるであろう日本の社会に興味を持たれたのは、本当に必然だったのかもしれない。

テキストに書いてあることだけを丁寧に教えてくれるだけだったら、多分、3ヶ月ぐらいで飽きてしまったかもしれない。「こんな質問をしたらどう答えてくれるだろうか」「こういう作文をどう評価してくれるだろうか」という興味の方が勝り、毎回、授業が楽しみになったのだ。

私のように書くことを生業としてきた人間は、言語そのものをしゃべることができるようにすること以上に、異国の言語、それも日本と共通の文字である漢字の成り立ちや文化的な要素、社会的な背景を合わせて教えてくれることも、興味を刺激してくれた。それが月に2、3回で1レッスン25分の授業に集約されていて、いつしか言語の習得以上に、そういう話を聞くことが目的になっていた。

正直に言えば、これまで中国に対する私のイメージは、あまりよくなかった。国家と国家の対立が先鋭化して、国民たちも同じような感情を抱かざるを得なかった。しかし、C先生のように中国から日本に渡り、苦労して日本の言葉を学び、日本社会に適応してきた人たちは、国という考え方ではなく、人と人の関係にこそご自身の居場所があることに気がついたのだろう。その決断と行動力に敬意を表したい。

当面、退職後のいろいろな作業に煩わされることもあり一旦休会したが、その期間は、先生に教えていただいた言葉への興味を失うことなく自主勉強に励み、またお会いできる日には、見違えるように成長した姿をお見せできるようになりたいと思う。

#いま時のジブン

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