人生の区切りを迎えて#09
最近よく行くようになった場所とは?
■過去の自分に会える場所
最近、定期的に墓参りに行くようになった。これまでも比較的、墓参りは欠かさない方だと思っていたが、自分の中の行動の中に定期的にセットされている気がする。
別にお彼岸だとかお盆だとかというよりも、なんとなく区切りごとに行くことが多い。
先祖たちからすれば、自分の都合ではなく…なんて思っているか、お前はよく来てくれるね、と言っているか分からないけど、お互いにスッキリすることは間違いない。
生まれる前に亡くなった祖母や叔父は、遺影から人となりを想像しながら想いを馳せる。幼い頃にお世話になった叔父叔母には、感謝の気持ちを伝える。それだけのことなのだ。
■その場所に行くと分かること
いつも行くお墓は3ヶ所。少しずつ距離があって、適度な感覚が不思議だ。
まずは自分の父親と弟の墓へ。小高い丘のような場所にある市営の霊園は、格差のないように墓石の形や大きさが決められている。30年前は何もなかった場所が、綺麗に整備されて、今では訪れる人たちも、散歩をするような気分でお墓参りができる。
次に行くのは母方の祖父母、叔父叔母が眠るお寺の中の墓地。なぜ、こんなに急勾配な場所に作ったのか分からない場所で、いつも足の悪いカミさんが登るのに苦労する。
でも世話になった叔父叔母への感謝の気持ちを忘れないように、できるだけ綺麗にしてあげたい気持ちだ。
そして最後も三男の叔父叔母のお墓なのだが、これは少し意味合いが違う。実は、母方の祖父母と長兄の叔父のご遺体は、ここに眠っている。魂だけを先ほどの長男(正式には次男)の叔父の作ったお墓に持って行った経緯がある。
そうは言っても、そこに祖父母に加えて、戦死した叔父も埋葬されていると聞くと、同じようにお参りをしないといけない気持ちになる。そんなこんなで、1日仕事になるのが常だ。
■自分のミライが見える場所
そして今年の夏に、少し遠方にある父方の祖父母が眠るお墓にお参りした。自分が会社を退職することの区切りと、父親の実兄が寝たきりの介護状態だと聞いて、お会いしておかなければ後悔するのではないか、と思い立ち、高速道路を飛ばして行った。
ここは、50年前に父親が亡くなった時に、父方の祖父が、私たちとの関係が薄れてしまうことを心配して、ここに父親の遺骨を埋葬した場所だ。それから20年後に弟が亡くなって私たちの住む地域にお墓を作るときに、父親の遺骨を移したので、私には馴染みのある場所だ。
とても暑い日だった。あれから30年近い月日が流れ、私はまた同じ場所に立った。これまでの親戚縁者の成り行きを、私は時に当事者として、時に傍観者として見てきたのだ。そして、これからも引き続き、それを見守っていく役目を、ここで眠る人たちから求められるのだ。
そうやって一族の行く末に関わりながら生きていくのだ。大したことはできない。ただ生きている以上、私がお墓参りをするたびに、その役割を果たすことになる。
お気遣いなく。
やれることをやるだけです。
———編集後記———
お墓参りをするたびに
まだまだ私はここに入れてもらえない
のだろうなと思う。
生きて役割を果たさなければ
ならないと自覚している。
決して信心深いわけではない。
ただ先人の生き様に触れていたいだけ。
いや、これからの自分の生き様を見てほしい
というのが本音だと思う。
この世に生きて
人として想い悩み喜び悲しんだ
こういう思いが死とともに無くなって
しまうとは到底思えないからだ。
人間なんて
どんなに時代が変わろうとも
そんなに変わるもんじゃない。
やれることを
精一杯やっていきたい。
そう思えるエネルギーを
彼らがくれるのだ。
#人生の区切りを迎えて
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