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プレゼンテーションのうらのウラ

プレゼンテーションというのが、一発勝負だった時代は終わりを告げたようだ。

少なくとも、クライアント側でも面倒なやり直し、考え直し、の繰り返し作業は無しにして、現場のスタッフと企画会社側で事前に策を練り、対象者の意向をできるだけ反映させて、即時、実行できるように仕上げるのが普通になっている。

かくいう私も、最近、スタッフにわざわざ再考を促すような師匠的な役割よりも、どうやったら決定者の意向に沿って決定しやすいかを、レクチャーするようになってきたので、悩みはするが、スタッフの晴々した顔を見ると、そういうものかと納得せざるを得ない。

私が先輩に教えていただいたプレゼンテーションというのは、相手にサプライズをもたらすことであり、そういう観点はなかったなあと言わせることが、最高の褒め言葉だった。それが叶わなかったとしても、決定者とともに考えて、なるほど、そういう方向性を期待されていたのか、と反対に教えられたりするのも、それはそれで勉強になり、経験になったものだ。もうすでに定年されて、たまにお会いして飲んだりすると、当時のやり取りを先方も楽しんでいたことが分かって嬉しかった覚えがある。

そういう現場でのぶつかり合いが煩わしくなり、働き方改革で、できるだけ残業させないようにするため、どう修正したら良いかを指示の中に入れなければならない。むしろ、筋書きを教えられて、その通り企画書を作らなければいけない彼らの自尊心はどこにあるのだろうか。それで満足して、ツールで綺麗な紙面(画面?)を作ることに力を注いでいることがとても心配になる。

企画というのは、その名の通り“くわだて”でなければならないと思っている。年功序列の会社が多い中、唯一、上長に対して堂々と正論を述べて、ある意味、上司でさえ考え付かなかったアイデアを出せた時の喜びこそ、企画をやる人間の面白さだと思うのだが、前述のやり方では答えの分かっている試験に挑むようなものだ。

できるだけ失敗しないように、余分な仕事時間を増やさないように、と遠回しにしていくと、結局、本気でプレゼンするときに、上手くいかないのではないか。それとも、何度も成功のシミュレーションを重ねていけば、そのうちに成功の法則が見つかるというのであろうか。

ものづくりの現場でも、職人のような手先を精密に再現した機器が開発されたり、調理機器は、今やプロの感覚までもプログラミングされて、見事なまでに加減も調整できるらしい。確かに、人が少なくなって、省力化を目指すことは悪いことではないが、人から人へと繋いでいく知恵や知識がAIによって集約されてしまうことに、少し寂しさを覚える。

私はこれから、
誰に、何に、驚かせてもらえるのだろうか。
それだけが心配だ。

#いま時のジブン

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