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変わりざまを楽しむ

かつて日本は島国であった。
いまでも島国に変わりないのだが、
様相を変えてしまっている。
その大きな原因は、

独自の文化や人を失いつつあるところだ。

国境がすべて海であることで、
日本は固有の文化を育ててきた。
その独特の文字や音楽、踊りなどは、
どんなに偏狭なものだといわれようが、
ふたつとない固有の文化に変わりはない。

しかし、悲しいことに、言葉や成り立ちの
系譜が失われつつあるように思える。
発想そのものに固有の文化の誇りが
感じられない。

それはあらゆるものを融合化してしまう
日本人独特の柔軟性が、自分たちの文化を
変えてしまったのかもしれない。

では、歌舞伎や能だけが日本の文化か
といえばそうではない。なにしろすべてが
大陸から渡ってきたもののアレンジという
感が否めないからだ。

生まれ育つというよりも、
コアな精神世界を、自分たちが一番快適な
ように変えてしまうことに原因がある。
都合のいいことは、その背景や技術などの
しがらみに煩わされることがないことだ。

されるという言葉さえおかしい。
押し付けられてもいない。
あくまでも自己流なのだから。

オリジナルのままがどうしても気に入らない、
どうにかしてその源流を断ち切りたいと
願いながら、贋作を本物にしてく作業が
永遠と続けられてきたのだろう。

こんなことを思ったのは、今日、
「情熱大陸」で元(はじめ)ちとせを
観たからだ。

彼女の民島唄は、彼女そのものであり、
出身の奄美大島そのものであり、
その地の文化そのものだった。

彼女の歌声にかかれば、カバー曲はすべて
彼女のものになり、彼女のなかにある何か、
そして奄美の生活そのものになっていくような
気がしてならない。

そんなに自分の言葉や歌が、
現在の生活や文化、そして遠い先祖までも
想像させていることは考えられない。
ましてや故郷そのものがない自分にとって、
生活と文化が繋がっていることを、
本当にうらやましく思う。

人が人として生きていくために大切なのは、
自分のオリジナリティだ。

そんなもの煩わしいと思うこともあるかも
しれないが、自分の生きている年月や、
数えきれないほどのお金があっても
手に入れることのできないオリジナリティ
とは、かくも複雑で、愛おしいものなのか。
そんな嫉妬にも似た感情を抱いてしまった。

どこの誰でもない、唯一絶対の存在。
そして表現者としてのオリジナリティ。


自分のめざす道だからこそ、そのルーツは
一生をかけて探していきたい課題でもある。
そのためには、書き続けなければならない。

不覚にも家族旅行のためにこの1500文字
コラムを休んでしまったが、この一日が
その前の6日間のオリジナリティを無意味に
してしまったような気がしてならない。

休んではいけないのだ。

つねに自分の感じたこと、思ったこと。
そしてどうしても伝えたいことを一心不乱に
書き続けなければ、この世界は単なる趣味の
世界で終わってしまう。

これは闘いなのだ。

どんなに夢見てもすぐには成しえないもの、
それがオリジナリティであり、
その存在のためには“続ける”こと以外、
私たちのようなボヘミアンには
道は遺されていない。

日本がオリジナリティを失いつつある状況の
ように、良いものを選りすぐるだけでなく、
つらくても歯を食いしばってやってみよう。
きっと自信をもって生きていくための手段が
見つかるような気がしてならない。

きっかけは誰でも、何でも、些細なものだ。
些細だからこそ意味がある。決まっていない
からやりたくなる。そんなふうに思いながら
今日も明日もまた、書き続ける

* * *


当時の僕が書いたこの文章は、
日本の文化やオリジナリティに対する
深い思考が反映されているように思える。

特に、日本の文化が融合化し、
オリジナル性が失われているという懸念が
強く反映されている。

日本が持つ独自の文化や伝統は、
世界に誇る財産であり、それを失うことは
大きな損失だ。
しかし、現代社会のグローバル化や情報化の
進展によって、日本の文化が希薄化し、
オリジナリティが薄れるのは仕方がない。

むしろ、その変化を、変わりざまを
楽しもうではないか。

自分の思いや感じたことを書き続けることの
重要性を確認しつつ、言葉による思考や感情は
自己表現の一つの形であり、
他者とのコミュニケーションを通じて、
新たな気づきを生み出すことができるから。

この歳になってようやく、自分のルーツを
大切にしながら、創造性を発揮するための
努力する環境ができたことを喜び、
これからも書き続けていきたい。

2002/05/26Sun
#あの頃のジブン |14

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