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靴をそろえるということ
靴=足元=現在地
「靴をそろえましょう」
「靴がそろうと心がそろいます」
「もし、乱れた靴があったらその人の心が乱れている時です」
「そんな時は、そっと他の人の靴もそろえてあげましょう」
「そうすればきっと、その人の心もそろうでしょう」
これは、以前とある野外活動センターのトイレでみかけた文章である。
当時僕は25歳くらいだったか。それまでに何度だって同じことを言われただろうが、そこまで響かなかった「靴をそろえましょう」という言葉が、この時ばかりは、心から「大事なことだよな」と感じた。
靴は足に履くものだ。
つまり自分自身と地球をつなぐ仲介役。そしてその靴は、いつでも僕たちの「足元」を支えている。
足元と言えば、凸凹した道を歩くときに気をつけるくらいで、舗装された道で下ばかり見て歩いていたら「お金でも探しているのか?」と訝しく思われてしまう。
また、ものすごいスピードで変化する現代では、足元を見る余裕がないということもあるかもしれない。
しかし、足元とは自分自身の現在地だ。
凸凹道でも、舗装された歩道でも、超スピード移動していたとしても――。
その現在地に立つための「靴」が乱れているということは、自分自身の心が乱れているということなのかもしれない。
靴をそろえなさいという教え
僕は小さいころからサッカーをしていた。
その頃はよく「靴が乱れている」と監督に怒られた。
監督曰く「靴が乱れていることにも気づけない奴が、試合中に他のことに気づけるとは到底思えない」。
それはつまり、靴が乱れている奴は、プレーも乱れるということだったのかもしれない。
そんな感じで口を酸っぱくして叩き込まれた「靴をそろえなさい」という教えも前述の文章に出会うまでは特に意識することもなく過ごしてきた。
今ならその教えもすんなり受け入れられるかもしれない。
靴をそろえるバトン
実は最初の文章には、もう一小節あって
「その人の心もそろって、他の靴をそろえはじめたら、いつか世界中の心もそろうでしょう」
「靴をそろえる」という行為は、目まぐるしく変化する生活の中で、ちょっとだけ立ち止まって、自分自身の現在地を確認すること。
そして自分の心が整ったら、次の誰かのために無言で他の靴もそろえてあげること。
もしかしたら、今日僕が渡した「靴をそろえるバトン」が、めぐり巡って、未来の僕の心をそろえてくれるかもしれないと信じて、今日も「靴をそろえる」