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カフカ、「変身」

「変身」のザムザ一家は孫たちにいかなるレガシーを残せるか

ある日等身大の昆虫に変身したグレゴール、兄思いのグレーテル、そして両親。理由は不明。あたかもヨブを襲った悲劇のように。家族に救いを理解を求めるのだが、語れば語るほど、昆虫となった身体の音声も昆虫の声帯となってしまった。不気味な音をギシギシ、軋む異様な音を発するだけで、伝わらない。口から異様な体液が糸を引いて床に落ちる。もう人間ではないのだ。なぜ分からないのだと。兄の変身により生活が困窮。やれることはやった。父は銀行の守衛、母は女性服用の下着に針仕事の内職、娘は店員の職で皆家族のくいぶちを支え、それでも足りず、一部屋を貸し出して家計を支える。コミュニケーションが取れぬ不気味な巨大昆虫に変身した兄の存在はいつしか家族にとって大きな負担。彼らの未来を閉ざす邪魔ものと化す。「役立たずは生きていくものにとって邪魔。だから•••」未必の排除、存在否定ヘ。
*グレゴールを襲った変身は年老いた自分ではないか。子供の自分とは全く異なる姿、かっての頬を赤く染め、野山を、街角を遊び場にした頃と比べてみる。腰は曲がり、手足から胴体、首、顔には深い皺、喋る声は嗄れ、目は霞すむ。髪も抜けた今の姿はまるでグレゴールのようだ。家族のため、身を粉にして働き続け、今尚早朝から夜遅くまで立ちっぱなしの仕事だ。.カフカの「変身」の登場人物は老いた自分だけでない。
*津久井やまゆり学園事件の植松聖被告人はグレーテルではないか。黙過する親たち。むろん犯罪者植松とグレーテルと親であるサムザ夫婦とは別である。小説、架空の物語りと日本で起こってしまった現実は異なる。がしかしその間にはグラデュエーションが横たわっている。異なりつつも繋がっている、非連続の連続。
*ふと関東大地震時の惨劇を思い起こす。自警団による、「朝鮮人が毒を井戸に持った」•「朝鮮人が放火した」等という流言飛語により、自分達家族やコミュニティの危機に遭遇した時、人は激変する。変身したのはグレーゴールだけでなく、献身的家族想いの妹グレーテルそして両親も自分達集団の防衛のため、犠牲者は必要だと、やむを得ず「ソレ」は既に兄でなく、異質の存在なのだから。異様な姿、形は母を脅し、床、天井、壁に貼り付き不気味に音をたて、危害を加えるかもしれぬ。
*そして直近の文学作品。生まれながらの「変身者」、芥川賞の「ハンチング」の著者は我ら健常者の常識を問う。変身がメタフアに満ちているならこちらは直球だ。「読書文化のマチズモ」をはじめ、我らサムザ一家の常識を撃つ。少数者を姿、顔立ち、語る言語が不明。我ら日本人と異なる、又は健常者と異なり、ただメシ食いではないか。生産性が低い、どうして彼らを優遇するのかという心の動きが蠢いてくるのを覚えないか。ありはしないか。関東大地震で流言飛語が飛び交い、「朝鮮人が井戸に毒を入れた」というデマ等に普段押し隠していた不安と疑心暗鬼が一気に攻撃心に激変。当時の自警団により多くの朝鮮人•中国人そして彼らと間違われた日本人の香川の薬売りの人、沖縄出身者の人たちが虐殺された検見川事件(千葉県•花見川)•福田村事件(千葉県•野田市)。その他闇に葬られた無念の恨みの声がそこかしこに潜んでいるに違いない。あれから100年経過するも連綿と続く偏見と差別。
*「アイツラ危ない、オカシイ顔つき、挙動不審者、地域の安寧を破る危険、犯罪予備軍だ!」と煽る言動と行為が今尚根強くある。偏見と差別の先には排除から殺戮が潜んでいる。現代のことそして将来のこととして繋がる。
*監督森達也の新作「福田村事件」。歴史的事件を今日に繋がる人間社会の偏見•差別のよって立つ人間集団心理を抉る。普通の心優しい人が家族を守るため地域のためという不安に駆られ武器を握る。どす黒い狂気と社会構造を生む歴史的事実に迫る画期的映画。集団化→一人称〜我らへと集団の特定の感情、考えに単純化していく無思考と権威(権力)に追従し、温厚な人々が残虐非道な拷問、強姦、ありとあらゆる犯罪に時に喜々として踏み込む、一線を超える「相変異」の温存を許してはいけない。その事を問うてくるカフカの「変身」。あなたは、「変身」していないか、大丈夫かと。


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