【しらなみのかげ】 「アフターコロナ」は「エシカル」な「ソーシャル・ディスタンス」とは別の仕方で #7
(この文章は以下に説明する理由により1月3日分として投稿致します)
昨晩は「梨泰院クラス」を最終回迄見た後、書き始めたのだが書いている内にそのまま寝てしまった。ホットカーペットの上でブランケットを身体にかけて書いていたが、余りの温かさに眠りに落ちてしまった。今は、その途中まで書いた原稿を少々推敲している次第である。
「梨泰院クラス」は最後迄期待を裏切ることの無い盛り上がりを見せる作品だった。飲食業界の経済戦争を舞台とし、ラブロマンスが絡んだこの復讐劇に於いて何と、最後の展開の中で派手なスペクタクルも見せてくるとは舌を巻いた。繰り返すようであるが、最高に面白かった。
但し折角だから、三ヶ日の最後の日の更新としては、コロナ禍「後」に於ける社会の在り方について語っておきたい。と言うのも、歴史的に見て、パンデミックはほぼ3年で終熄へと向かっていく傾向にあるからである。強い感染力を持つがデルタ株よりも弱毒と言われるオミクロン株が大流行を見せている今、ウイルスの方が変異することにより、いよいよ本当に「コロナはただの風邪」になる可能性がある。
14世紀にヨーロッパの3分の1の命を奪い、その後も世界を何度も恐怖のどん底に陥れたペストのパンデミックも、当時の世界人口の3分の1である5億人程が罹患し、その内5000万人から1億人の命を奪い、第一次世界大戦を事実上「終わらせた」に等しいスペイン風邪のパンデミックも、大凡3年で終わっている。あれ程強い致死率を誇る強毒の感染症が、感染対策や治療技術が未熟な時代状況に於いて3年で終熄しているのである。
で、あるならば、この2022年にコロナ禍が終熄へと向かうのは何も不思議なことではない(起きてニュースを見たらWHOのテドロス事務局長が「今年パンデミックを終わらせる」と宣言していた)。そこで当然問題となるのは、社会は一体「元通り」になるのか否か、所謂「アフターコロナ」の状況である。個人的な予想に於いては、その時は近付いている。だから今、少し考えておきたいのである。
私が思うに、社会は元には決して戻らないだろう。
何が戻らないのか。まず言えるのは人間関係の根本的な構築の仕方、である。
勿論、このコロナ禍に於いて社会の根幹をなす経済は強烈なダメージを受けた。
しかし経済は、数値としては何処かの時点で程度の問題はあれ回復へと向かうだろう。幸いにしてコロナ禍で株価は巨大な暴落を見せることはなかった。人間は経済活動無しに生きていくことは出来ないのだから、「アフターコロナ」ともなれば、金は再び市場に流れ始める筈である。少なくとも資金が流動化するという意味に於いては、経済状態の回復はどの時点においてか実現することであろう。
しかし、取り分け甚大なダメージを受けたのが、飲食業やイベント業など、不特定多数の人がその場に集まることが売上に直結している業種であったことを忘れてはならない。それらの商売は、感染拡大の主原因の一つとして、一時期本当に目の敵にされていたことは記憶に新しいだろう。2018年から施行されている暴力団排除条例により、暴力団員は5人以上集まると無条件で逮捕要件を構成するが、一般人に於いても不特定多数の人々が必然的な理由無く集合することは罪過の如き扱いを受けることになった。銀座や六本木に於いて、家賃など毎月の固定経費に耐えられず撤退した飲食店が後を絶たず、空き物件が続出したのもそうした社会動向の反映であろう。
かくして第三次産業が主体となっている現代日本に於いてはこのことがまず経済に凄絶な打撃を齎したが、私が思うに、他人と関わる際のこの「ソーシャル・ディスタンス」は、最早感染防止という事由を超えて、(少なくとも本邦に於いては)社会に定着してしまうのではないだろうか。あの緊急事態宣言下に於いて、「三密」の防止、「ソーシャル・ディスタンス」は、今流行りの言葉で言えば最早、人々の根本的な行動規範、即ち「エシカルなもの」と化していた。
コロナ禍に至って、「人が集まること」そのもののリスクが生理学的に顕在化することとなり、元から大きくなりつつあった心理学的なリスクが肥大化したのである。それは、人間関係において必然的に生じる「リスク」の回避という面を、感染拡大防止という名目に於いて、一つの指針とし、一つの倫理とすることになった。
そう、「人が集まること」「人が密になること」は元からリスクの大きいものになりつつあった。例えば、昨今の社会に於いて急激に進んでいる「ハラスメント」概念の無限拡大は、人間のあらゆる社会的行動にポリシーとコンプライアンスの概念を持ち込んだように思われる。即ちそれは、双方の意図に基づく「合意」無きもの、そしてそれに対する「社会的合意」無きものの徹底的な排除のガイドラインの無際限な敷衍である。煎じ詰めて言えば、それは、人と人とが集まり、密になる時に必然的に生起してしまう偶然性の排除、特に、意図の行き違いや双方の誤解など好ましくない偶然性への敵視でもある。そもそも近代世界、取り分け都市に於いて、公共空間ないしは(飲み屋やイベントのような)半−公共空間に於ける匿名の個人の集合は「社会」なるものの成立要件であったと言えるが、今やそのこと自体がリスクを極大化させる事態として取り扱われることになっている。
それに合わせて、個人の心理的なプライバシー領域も次々と拡大している。インターネット犯罪というリスクを回避するという実際的な目的も兼ねて、倫理的な名目に於いても、プライバシー領域はポリシーとコンプライアンスに於いて徹底的に保護されるべきものとして考えられるようになっている。繰り返すように、人が集まり、密になれば、その時点でプライバシーというものは何処かで毀損されざるを得ないものであり、そのスレ違いをゼロにすることは不可能である筈である。しかしながら現代人は、そうして産み出される偶然性に最早耐えられなくなりつつある。
近年喧伝されるSDGsは、政治や経済活動の在り方に止まらず、個人の生活のあらゆる領域をも全世界的に覆い尽くしているが、このような動向も同じ轍の上にあるだろう。「ダイバーシティ」「インクルージョン」「ジェンダー平等」などの標語を掲げ、地球規模の持続可能な経済的発展と相互理解促進を謳っているこの国際的指針は、まさに地球圏のポリシーであると同時に、個人間の生活上のコンプライアンスにも浸透しつつある。
そこでやって来たのが、このコロナ禍であったのだ。
コロナ対策が排除したのは何より人間の物理的な邂逅であったが、不可視のウイルスが社会関係に於けるリスクを物理的距離として現実化したのである。
そう言えば昨日の昼は、博多名物辛子明太子を開発した「ふくや」創業者の川原俊夫社長を博多華丸が演じた映画「めんたいぴりり」(2019年、江口カン監督)がテレビで放映されていたので観たのだった。川原社長は言うまでもなく、我が郷里福岡の偉人である。私は小学校の社会科に於いて習った記憶がある。博多の人間としてはずっと観たかった作品なので、恰度良い機会であった。
博多版「ALWAYS 3丁目の夕日」にサクセス・ストーリーを絡ませた人情噺として面白く観たのだが、全てに於いて「密」なのである。博多祇園山笠を愛し、利他心に溢れ、明太子開発に一筋な食料品店「ふくのや」店主海野俊之(博多華丸)、それを呆れながらも一心に支える妻千代子(富田靖子)、小学生の息子達、住み込みの従業員達、長男健一の同級生でおじさんに預けられている極めて貧しい英子(豊嶋花)、小学校の花島先生(吉本実憂)、向かいの金物屋のでんさん夫婦(ゴリけん・酒匂美代子)、貧しさの余りに海野の技術を盗む石毛(柄本時生)、明太子のファンの元博多人形師丸尾(でんでん)と、一連の登場人物達の距離が極めて近い。それは謂わば、拡大化された家族関係と利他心の輪の同期が、物理的な距離(取り分け、卓を囲んだ食事や酒の席)を通じて表現されるようなものであった。
主人公の利他心は、他人の家の事情にまで物理的身体を以て絡んでいくような性質の、今では極めて危ういものであった。それは、グローバルな次元で進められる社会政策と、個人のライフスタイルの著しい個人主義化により、不可能になったコミュニケーションの在り方のように私には思われた。勿論、このコロナ禍以後、その不可能性は益々決定的なものになるだろう。
私達は「アフターコロナ」に於いて、人間関係の根本的な構築の仕方という意味に於ける「倫理」を考える言葉を今、世間で喧しく叫ばれる「エシカル」から一旦離れて、必要としているのではないだろうか。即ち、偶然的な要因によるリスク回避を最重要視して立てられるポリシーとコンプライアンスという発想を一旦離れて考えるべきではないだろうか。
そしてこの問いが、今後の経済の在り方をどのように考えるべきかにも開かれている筈である。
(この文章はここで終わりですが、皆様からのお年玉をお待ち申し上げております。)
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