【しらなみのかげ】 単にそのようである世界をまずは認めること #17
(二日前、1月13日に書いたテクストです。夜は仕事をし、その後は降り積もる雪の中、行きつけのバーに挨拶に行ったら朝まで飲んでしまい、昨日少しづつ改稿や校正をしていたら、出すのが本日になってしまいました。)
私は最近、人生を生きていくに当たって、「単にそのようである世界をまずは認めること」が何よりも重要ではないかと考えている。
嘗て、福田恆存はその有名な『私の幸福論』の最初の章「美醜について」に於いて、「醜く生まれたものが美人同様の扱いを世間に望んではいけない」と言った。確か同様に、貧乏人は金持ち同様の、不具者は健康人同様の扱いを世間に望んではならない、同様に扱われないからと言って世間を恨んではならない、とその後に続けて書いていたように記憶している。現実の世界というのは不公平なものだ、悪く言おうが何と言おうが、それが事実だ、と。
此の文章で福田は、顔採用に対して怒る女性のことも、顔がまずくても内面で勝負だという人のこともバッサリと切り捨てていた。前者は正義による社会批判のように見えて自分を甘やかしてくれない社会に対する恨みであり、後者は僻みであり、劣等感だ、と。
そうして尤もらしく社会の不正を告発したり短所の代替案として長所をアピールしたりする前に、まずは自分の弱点を認める素直な努力を行いなさい、と彼は説く。そうすることが自分自身の良さを作っていくのだ、と。
「あなたはもっと自由に怒って良い」と絶叫する「目覚めた」人々が先進諸国では後を絶たずに現れる此の現代に於いて、福田の言葉が何よりも光って見えるのは、私にとってだけだろうか。
「目覚めた」人々−即ち現代の「リベラル」派は、常に社会に対して怒っている。「政治的正しさ」を錦の御旗とする彼等は、社会生活の殆ど凡ゆる領域に於いて「抑圧」「加害」「差別」を見出しては、日々怒り続けている。中でもとりわけ激しく怒り狂っているのは、フェミニストやLGBTQ、移民、或いはBlack Lives Matter等、「マイノリティ」のアイデンティティ・ポリティックス運動である。
そうした運動家達と協働して、先鋭化した文系諸学、とりわけ社会学やジェンダー論などの分野は、「構造的不平等」とか「社会的排除」とか「累積的な抑圧経験」とか「批判的人種理論」とか「脱植民地化」とか、尤もらしい概念を沢山生み出している。彼等「woke」な知識人達は、マルクス主義の「社会科学的」な基本的構想に、或る時は難解なフランクフルト学派の批判理論の欠片を塗したり、或る時はこれまた難解なフランス現代思想を断片的に折衷させたり、将又或る時はフェミニズム理論やポストコロニアリズム理論を振り翳して、様々な新造の「正義」のイデオロギーを捏ねくり回している。
そうして彼等は、「マジョリティ」である「普通の人々」を絶え間なく「告発」する。彼等は、「マイノリティ」は社会の凡ゆる領域に於いて構造的な「被害者」であるという当事者性を文化マルクス主義的なイデオロギーで糊塗し、運動家達と組んで「自分達には社会の「普通」を攻撃する資格がある」と言わんばかりに日々怒り狂っているのである。
然し、彼等の挙動を見ていて、ふと思わないだろうか。
−まさに福田の述べる通り、恨み、僻み、劣等感がその過激な運動の殆ど全ての原動力になっているではないか、と。
不平等であれ何であれ「単にそのようである世界」を「単にそのようである」と認めることが出来ないことが、即座に社会の「普通」に対する恨み、僻み、劣等感へと接続すると同時に、「人間は平等であるべきである」という抽象的に措定された「正義」なるものによって自己正当化される。何となればその「正義」は、自らが置かれている現実を認めない者こそが正しき者である、と囁くのである。
「あなたはもっと自由に怒って良い」「怒れるあなたは正しき者である」−かくして、社会に対して「正義の永久革命」が推進されることになる−永久に埋め合わせられることのない負の感情をエネルギーとして。
そして、その負の感情の裏面にピッタリとくっついて隠れているのは、実の所、そのように永久に満たされぬが故に増幅されていく権力欲や支配欲なのである。「私は醜いので美人と平等に扱われない」「私は貧乏人なので金持ちと平等に扱われない」「私は不具者なので健康人と平等に扱われない」という現実を認められない者が懐く社会への恨み、或いは僻みや劣等感には、他人や社会に対して「醜い私を美人と平等に扱わせたい」「貧乏人の私を金持ちと平等に扱わせたい」「不具者の私を健康人と平等に扱わせたい」という強烈な欲望が並走していることは言うまでもないことだから。
その恨み、僻み、劣等感が隠れた権力欲や支配欲と癒合したままに「正義」と結び付いた時に起こるのが、件の「正義の永久革命」なのである。いつかの未来に於いて彼等の情念を帳消しにする理想が完全に実現する瞬間が来たることを信じて、それは遂行される。そのようにして「正義の永久革命」が嘗ての宗教と同様にまで熱狂を以て信じられ推進される様子は、一言で言い表すのならば「政治的メシアニズム」である。
「現状を肯定する者達を全て批判しなければならない」
「現状を肯定する者は須らく自己批判をするべきである」
彼等「目覚めた」人々にしてみれば、「醜く生まれたものが美人同様の扱いを世間に望んではいけない」という福田の言葉は所謂ルッキズム肯定の思想であり、それは「差別」「加害」「抑圧」そのものであると言うだろう。
彼等流の抽象的に措定された「正義」から見れば、福田の思想はまさに社会的不正の存続であり、不正を存続させる為の「虚偽意識」即ち「イデオロギー」である、ということになるだろう。
しかし人間は元来有限な存在であるから無限の可塑性を持たないし、不平等でしかない各々の立場は思考の上では兎も角、現実には絶対に置き換え不可能である。絶対的正義の実現された地上の楽園は決して到来することはない。人間は絶対的に「正しく」など生きることは出来ない。寧ろ、そのようなものを望んでしまう心性の深みをこそ、覗き見なければならないのである。「正義の永久革命」とは結局の所、「正義」を建前にしながらも、負の感情とその陰で肥大化した権力欲や支配欲に引き摺られた「永久闘争」でしかない。
ジタバタしても無駄である。
我々はそれぞれ人生に固有の来歴を持つのであるが、その来歴は時間の堆積の中で形成されてきた社会と文化の中で形成されてきたものであり、それらが「単にそのようである」ことを先ずは何よりも素直に認めなければならない。そして我々人間は何処まで行っても、その来歴と社会と文化の「単にそのようである世界」をその不平等や残酷さ、自分の欠点や弱さまでも含めてそのままに認めた上で、これまでやってきたことを踏まえつつ、自分なりの流儀の中で生きていくしかないのである。
「単にそのようである世界をまずは認めること」−これが何より大事なことなのではないか、と。良かろうが悪かろうが、ダメだと言おうが何と言おうが、事実でしかない事柄というのが世界には沢山存在しているのである。
人生に於いて真に必要なのは運命愛であり、運命愛だけが個人を真の意味で自由にするのである。
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