【しらなみのかげ】 文系の学問はカルトか #14
今日は1月10日、十日えびす大祭の日である。
京都には勿論、日本三大えびすの京都ゑびす神社がある。
周知の通り十日えびすは、家運隆盛と商売繁盛を願って縁起物を求める日である。私の親が商売をやっている関連で、博多の十日恵比寿神社には何度も家族で十日えびすに訪れた。熊手やお宮の形をした貯金箱等の縁起物を、籤で引き当てる形だった様に記憶している。
商売という程のことを出来ていない私がえべっさんに行って意義あるものかと思ったりもする。とは言え縁起は担いでおくに越したことはないし、えべっさんは普段の生活圏の中にあって遠い所でもないので、明日にでも訪ねたい。
扨、今日はそのめでたい日に縁起でもない様な話でも書いておきたい。
それは、或るツイートを見て考えた、文系の学問とイデオロギー的政治運動の関わりについての話である。これは結構重要な話だと思うので、走り書き的覚書として、記しておきたい。
そのツイートと言うのも、漫画家の須賀原洋行氏による以下のツイートである。
「社会学がフェミニズムという思想を研究するならわかるんだけど、フェミニズムを「ジェンダー学」とかなんとか、あたかも学問のように偽装して自分達の運動の武器にする「社会学者」が異様に増えた気がする。赤軍派の革命思想やオウム真理教の教義等を学問に見せかけて大学で教えるのと変わらない危険度」
「例えば、宗教と宗教学は別物で、フェミニズムもフェミニズムとフェミニズム学に分かれていればいいのだが、フェミニズム自体が学問のふりをしている。」
須賀原氏のこの指摘には、私も殆ど同意する所である。フェミニズムは明らかに「学問」ではなく「政治運動・社会運動」でありその教義となる「イデオロギー」であるし、社会学という分野がそれに飲み込まれていることも又、事実である。そもそもフェミニズムは当初より政治運動・社会運動として始まっているではないか。
しかし、こんなことは別に今、フェミニズムから始まった訳ではない、ということはマルクス主義のことを考えれば分かる。前世紀にはマルクス主義こそが「社会科学」であり「歴史学」である、と信じられていた時代があり、それもかなり長い期間に亘ってそうであったことは銘記されるべきである。時には、物理学や生物学といった自然科学ですら、弁証法的唯物論という「科学」に従うべきであるとされた時代すらあった。当然のことながら、共産党系か非共産党系かを問わず、革命運動、もっと平たく言って政治運動や社会運動とその学問的営為は一体化していたことも又、歴史的事実である。
では、マルクス主義にせよ、フェミニズムにせよ、何故それらが「学問」という顔を出来る(或いは出来たのか)のか。それは、それらが内実はどうであれ、「批判的認識」という体裁を持っているからである。マルクス主義は嘗て、資本主義の構造とそれに付随するブルジョア・イデオロギーへの「批判的認識」として「学問」の顔をしていた。フェミニズムは今、家族制度や性的分業など女性を疎外する家父長制的な社会構造への「批判的認識」として「学問」の顔をしている。勿論、それらの「批判的認識」はそれ自体がドグマに基づいており、現実批判的な運動に直結しているのであり、その瞬間に「学問」とは呼べぬ本性を剥き出しにするのであるが。少なくともこの点を見れば、マルクス主義の展開とフェミニズムの展開は、政治運動の性質やイデオロギーの内実の相違はあれども、殆ど同じである。
兎も角も、文系諸学がカルト的なイデオロギーと一体化している事例は今に始まった話ではない、ということである。
そうした経緯を考慮する時、例えば本当に「宗教と宗教学は別物」なのか、ということなども又問うておかねばならないだろう。もっと敷衍して言えば、文系の「学問」の学問性とは何か、ということを問わねばならない。
先に「近代的学問」の典型とも言うべき宗教学の方から言っておけば、宗教と宗教学は差し当たり別物であるが、宗教学そのものがその成立の機縁からして「宗教的」なものであることはまず疑い無い。特定宗教の教義実践から離れて「宗教現象」なり「宗教的なもの」なりを認識しようとするその近代的な試みが、「宗教の本質」を追い求めるそれ自体「宗教的」と言って良い動機に支えられていたことは恐らく事実である。宗教学、その典型としての宗教哲学と宗教史学の成立は、近代化の中で退潮し、喪われていく「宗教的なもの」を掬い上げんとする営みであったと言うことが出来る。
宗教学は、それ自体が「宗教的学問」、或いは「学問的宗教」とでも言うべき性質を根源的に持っているのである。
ハンス・C・キッペンベルクの『宗教史の発見 宗教学と近代』(月本昭男・渡辺学・久保田浩訳、岩波書店、2005年)と、深澤英隆の『啓蒙と霊性−近代宗教言説の生成と変容』(岩波書店、2006年)という二冊の名著は、そのことをやや異なる角度から委細に亘って詳細に論じているので、私が述べていることを本格的に知りたいという方にはお勧めしておく。
少し前のエントリーで書いた宗教哲学者モーリス・ブロンデルに関する話と直接に結び付く事柄であるが、今ここでは拡げないでおこう。
そのことに関連してここで言っておきたいのは、ヴェーバー、デュルケーム、ジンメルを見れば分かるように、社会学がコント以来の「実証主義」という看板を掲げながらもそのような宗教学の成立と密接に結び付いていたということ、そして、社会学の成立とほぼ同時代に近代市民社会が成立しており、「社会」という新しい単位が「発見」されたということである。
そこに、「人々を有機的に結び付けるもの」という意味での「宗教」の残響を、所謂宗教とは全く異なる「世俗」という形で聞き取ることは容易ではないにせよ十分可能であろう。社会学は、実証と法則という「科学」の体裁を一応は取りながらも、明らかに「社会」というものに対してメタ的な意味で宗教が担ってきた「価値」を変奏して付与し続けてきたように思われる。
社会学、それは「世俗の神学」であるとも言える(こういう訳で、私は宗教社会学こそが社会学の王道であると考えている)。
それとは別の経緯で、神の代わりに人間の「類的存在」を掲げて現実の変革を訴える政治的メシアニズムとして登場したマルクス主義は、そのような性質をより強烈に有していることは断言出来る。絶対知=神を精神に内=化させることで歴史を弁証法的に綜合したヘーゲルの哲学を物質へと逆転させたその思想は、「無神論的宗教」というべきものであっただろう。現象を哲学的綜合によって理解することに専心し、近代国家に歴史の終焉=神の顕現を見たヘーゲルの哲学を弁証法的に否定するその教えが、共産主義社会というユートピアニズムの実現に狂信的に邁進するカルト的イデオロギーの色彩を放つようになることは想像に難く無い。
フェミニズムに至っては、当初より女性という特定のアイデンティティの解放という運動として出立し、そこから実存主義やマルクス主義、或いは構造主義やポスト構造主義などの理論を吸収することにより、「ジェンダー学」として「学問」の看板を掲げるようになったものである。尚、同様に特定のアイデンティティの解放という運動から走り出したものにポストコロニアリズムとカルチュラル・スタディーズがある。こちらの方は、第三世界なり被抑圧階級なりという特定のアイデンティティである。
これらが何れも、政治的メシアニズムたるマルクス主義の読み替えによって成立している点も見逃せない。かくして、「ポストモダン」の主潮流を構成する文化左翼のドクトリンが出揃うという訳である。
近代の歴史とは、この「無神論的宗教」を「世俗」ないしは「非宗教」という名目の下に数多く産んできた歴史なのである。文系の「学問」と呼ばれるものも、その根源的動機を見るならば、実証と批判という方法論を備えた「無神論的神学」であるのではないだろうか。
そこに伴走しているのは、そうした「至高の価値」を基に形成される人間的秩序の構成と形成や調整、言い換えれば法と政治であろう。それらを秩序立って認識するのは勿論、「法学」と「政治学」である。
ここに、古代より存在する神学、法学、政治学という学問が出揃った訳である。文系の「学問」の本質は神学と法学、そして政治学にあるように思われる。自然科学を範とする客観的な科学というべきものとは凡そ程遠いように見えるこれらの本質を備えているが故に、それは人間社会の秩序形成に直に手で触れることとなる。それ故文系の「学問」が、社会に著しい弊害をもたらす時、社会通念の側から見た時に一種のカルト的な運動と紙一重になってしまうことは想像に難くない。それと同時に、そしてこのような危険性を帯びているが故にそれは、我々人間と社会の秘密を開示するものでもある。
私自身は、「解放」という政治的メシアニズムが文系諸学を支配する時代をいよいよ終わらせなければならない時に来ていると思う。近代の歴史的弁証法は、ポストモダンな消費社会とグローバリゼーションの全面化、そしてインターネットの登場と普及を迎えて、最早終焉したと言って良い。近代化の最先端たるアメリカで力を増した福音派という原理主義が全世界に拡大していることも、そして、全てを宗教で覆い尽くすイスラム原理主義が世界的に台頭したことも又、その終焉の成果である。
その進展の一端を担った政治的メシアニズムの恐るべき力は、既にその歴史的役割を終えた。いや、本当はもっと以前に終わっていたのだ。その終わりを、いよいよ告げなければならない。
このようにつらつら考えていると、日本の民俗的な宗教に纏わる日に、巨大な「宗教」の話をすることになった。
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