くじ引き民主主義
選挙は民主主義ではなく、逆に民主主義を抑制するものかもしれない。
民主主義は全員が参加する直接民主制だけが、民主主義なのだ。
もちろん、あまりに構成員の多い近代国家で全員の参加は難しい。だから、選挙だ、というのだが、これは既に権力を持っている人に有利な制度に過ぎない。多数の人が知ってる人は、つまり既に多数の人が知ってる組織の長だからだ。
その証拠に、世襲議員が多くなる。あるいは元官僚とか逆にポピュリストの人気投票になる。
本当の解決は、無作為抽出である。
つまりくじ引きである。
突飛な話ではなくて、モンテスキューもルソーも、いやそれこそ古典ギリシャから、選挙は貴族や寡頭制の制度。民主主義はくじ引き、というのは常識だった。
フランスで、札幌で、世田谷で、あちこちでくじ引き民主主義の取り組みの有効性が見直され始めている。
普通の市民が無作為に選ばれ、そして専門家の分析を聞きながら、熟議する。
それが、なぜ大事か、というと現代社会は、自由と私有財産権に基づく個人の富を豊かにすれば全て良くなるとされた時代が終わりを告げてるからだ。
現在は、社会的共同環境をどううまくつくることができるか、ということが、本当の富の生成に非常に重要になってきてる。
そのためには、それぞれ個人が多少の負担をし合うことによって、例えば、多くの税金を払ったり、私有地でも好きなように開発できるのを抑制することによって、より多くの人が文化的で健康的な良質の社会環境を手にすることができる。
さて、少しずつ個人の負担を増やす、ということを人気投票で選ばれる代議制の議員がするだろうか?難しいだろう。もし、そんなことをしたら、次の選挙で負けてしまう。たとえば、消費税を入れようとしたり、上げようとしたら、だいたい負けるか、そもそも大平正芳は死んでしまった。
個人個人の負担を増やす方が良い、ということは、だから、人気投票ではなくて、偶然に選ばれた市民が熟議する方が良いのだ。
このような仕組みがあるからこそ、あの一般意志を主張したジャン=ジャック・ルソーらが、くじ引き民主主義を主張したのだ。
「「抽籤による選任が民主政の本質である」とモンテスキューは言っている。賛成である。しかし、どうしてそうなのか。モンテスキューは続けて言っている。「抽籤はだれも傷つけない選び方である。それは、各市民に祖国に奉仕できるという、もっともな期待をもたせるのである」しかし、理由はこの点にあるのではない。
… なにゆえに抽籤による方法がより民主政の本性にかなっているかがわかるだろう。民主政においては、行政は、その行為が簡単ならば簡単なほど、よりよく行なわれるのである。
真の民主政においては、施政者の職は、いかなる場合でも、利益ある地位ではなく、わずらわしい負担であって、とくにある特定の個人を選んで、これを押しつけることは正当ではない。ただ法律のみが、籤に当たったものにこの負担を屈することができる。なぜならば、この場合には、条件は全員にとって平等であり、選択は人間の意志になんら依存せず、したがって、法律の普遍妥当性をそこなうような特定の適用は、まったく存在しないからである。
貴族政においては、執政体が執政体を選び、政府は自分の手で自分を維持する。そして、投票制が最も所を得ているのは、この政体においてである。」