ケチがついたプロジェクトの行方
もう10年ほど前のことになる。中国人の友人を訪ねてカナダに行ったことがある。とある縁で知り合い、中国で意気投合して、カナダの知り合いの教授を紹介して、そこに留学したのだ。もう何年も何年もかけたプロジェクトは彼の合流で一気に進んだ。ものすごく優秀だった。そして集大成となる論文の最終稿を完成させるのに、みんなで膝をつき合わせて1週間集中形式でやろうとなったのだ。私にそんなお金の余裕は無かったのでskypeでと思っていたらカナダ人教授が渡航費を出してくれた。有り難い。
カナダ人教授の豪華な広い家で、大学の研究室で、合宿のように論文の詰めの作業を行った。夜は奥様の手料理を食べてビールを飲みながら、時には庭で焚火を囲んでウイスキーを飲みながら、論文や研究アイデアについて議論した。ひたすらに研究のことを語り合う天国のような1週間を過ごした。とても良い経験になった。何よりもこういう論文の作り方もあるのだと勉強になった。このネット時代に「最後は膝を付け合わせてやろう!」と言ったカナダ人教授の意図がよく分かった。古風な方法だろう。今でも、今だからこそ、アレをいつか自分も真似たいと願っている(もちろん、研究者の友人を我が家に呼んだところで、窮屈なだけで地獄しかない)。
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その時、中国の友人は同じ大学の別のプロジェクトにも従事していた。優秀で勤勉な彼は放っておかれないのだ。彼の働きぶりを見て、学内の他の研究者からも声がかかったのだ。滞在中、彼の別プロジェクトでしている実験が面白そうだったので見学させてもらった。私の見たことのない最新の装備で実験をする彼が羨ましかった。輝いていた。すごいなぁーと思ってみていたが、上手くいっているのかどうかはさっぱり分からないので「どんな調子なんだい?」と聞いてみた。その返事は予想外だった。
「このプロジェクトはマジでゴミ箱行きだな!全部まとめて投げ棄てちまいたい!」
と満面の笑顔で答えるので驚いた。なんで?というとプロジェクト開始早々から「unlucky」が続いたというのだ。そして、そのunluckyは想定しなかった問題を生み出して、問題の対処にひたすらに追われていると。ひとつ問題をクリアすると、すぐに次の別の問題が出てくる。問題を生み出し続ける悪魔のプロジェクトだ、と楽しそうに笑いながら言う。やってる方は楽しいようである。実際問題、うまくいけば色んなデータがとれるように思えた。短い夏の間にどこまで完成度を上げられるかにかかっている。夜にビールを飲みながら、プロジェクトの詳細を聞いた。なかなか面白そうだった。
時は過ぎて、つい先日のことだ。彼が新しい、そして素晴らしい論文を有名雑誌にパブリッシュしたのでお祝いメールを書いた。そこから彼と数通のメールをやり取りした際に「そういえば、あの時にやってた別プロジェクトって、あの後どうなったの?」と聞いてみたのだ。その答えはシンプルで「全てゴミ箱にいった。良い教訓になった」と返事がきた。そうか、そういうこともあるよな、と思って、その件については特に返事はしなかった。もし上手くいっていたのならば、ちょいと真似したいと思ったのだが、やはり駄目だったのだろう。
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私にも経験がある。どうにもこうにも「ケチのつくプロジェクト」というのは実際にある。実験開始と共に、ずっとまともに動いていた機械が壊れたり、新しく買ったサンプルチューブが外れだったり、定期的に確認していたのに校正が急にずれていたりとか、とにかく想定外の"ケチ"がつくことがある。しかし、ケチと思うのは自分だけで、そのケチがつくことには、なんらかの背景がある。忙しくて機械のメンテをサボっていたり、お金がギリギリで安い物を買っていたり、学生さんが校正の仕方を間違っていたり、など何らかの背景がある。
そういう背景のもとに想定することの出来なかったケチがつく場合というのは、出てきたデータを見て、何かがおかしいと感じることで検証が始まるので、2歩進んで3歩戻ったら、今度は3歩進んで2歩戻る、みたいな状態に陥いる。進んでいるのか、後戻りしているのか、足踏みしているのか、よく分からない状態になる。そうなったら最後「こいつはゴミ箱行きだぜ!」と恨み辛みを吐きたくもなる。でもプロジェクトを持ってきた偉いヒトは止めない。止めれない。せめて上手くいかない理由だけでもハッキリさせておかないと前に進めないのだ。こういう時、いつの世も苦労するのは現場で手足を動かしている人間だ。
そして最も致命的な「ケチ」は、そもそもプロジェクトの目的と手法がマッチしていない時だ。もしくは目的だけは素晴らしいけれども、その目的を達成するだけの実力もお金も足りない時だ。こういう時は、もう駄目だ。そのままでは何も生まれない。研究というのは常に背伸びしながら攻めるものだが、身の丈に合わなさすぎるプロジェクトを背負ってしまった時の悲惨さといったらない。辞めたいけれども辞められないジレンマ。ラボのメンバーは不幸になり、プロジェクトリーダーは信用をなくす。残るのは最初に感じた「勢い」と「ワクワク感」だけ。成果は出ずに、お金だけが浪費されていく。そういう時は人脈を利用して実力とお金を持っている偉いヒトに助っ人を頼み込むしかないのだが、それが出来ないと、目的を盛りまくった壮大なプロジェクトに対して、小さな成果を盛りに盛った中身のないスッカスカな「何か」が出来上がる。それは成果や報告書などとは、とても言えない「何か」でしかない。
この「スッカスカの何か」に名前をつけたいとずっと思っている。科研の報告書のシーズンだ。今年も、きっと山ほど盛りまくった「スッカスカの何か」があちらこちらで生み出されている筈だ。でもスッカスカの何かを作り続けていても、ずっと継続的に科研費が取れているヒトもいる。スッカスカであることを隠すのが上手い人がいる。私の身近にも居るが、いわゆる魔法使いみたいな類いだと思っている。いつか、その神髄を盗みたいとも思うが、結果や成果の方を見たいという思いの方が強い間は、盗みにいく必要はない。実験による結果が「プロジェクトの成果」ではなくて、「プロジェクトをとってくること」そのものが成果になった時、研究者としては終焉を迎えて魔法使いに昇格するのだ。私は、まだ足を踏み込んではいけない領域だと思っている。
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そう言えば「スッカスカの何か」を生み出し続けながらも継続的に研究費を獲得して、それらのプロジェクトのお金を、自分の好きな研究に器用に回しているヒトがいる。そういう方々は見た目は「スッカスカの何か」を生み出しているのだが、きちんとしたビッグな成果を裏家業のように算出している。こういう方達は魔法使いというよりも、心も肉体もマッチョな吟遊詩人みたいなものだろうか。研究者としての生まれながらの才覚みたいなものだろうか。私は真似できない。
科研の報告書を作りながら、オリンピックも「プロジェクトをとってくること」そのものが成果だったのだろうか?と考えていた。思えば盛りに盛ってしまったプロジェクトだ。おもてなしという言葉が遠い過去のようだ。とにかく最初から「ケチ」のつきまくったプロジェクトだ。こうなったら最後に出てくるのは「すっかすかの何か」しかない。個人的には(やる、やらないは脇においておいて)なぜコレほどのケチがついたのか、その背景を分析しようとも、見ようともしないことに嫌悪感を覚える。「運が悪かった」「自分たちは正しい」としか考えていないとしたら同じ間違いを今後も繰り返す。これだけの「ケチ」がつきまくる背景には、それなりの理由がある筈だ。やってもやらなくても、これだけの「ケチ」がつきまくった理由というのを、いつか検証してほしい。今の偉いヒトの目が光っている間は駄目だろう。自分が生きている間に、きちんとした検証結果が明るい場所に出てくることを望みたい。魔法使いも吟遊詩人も燻し出されて欲しいと願う。