星の階段

- 星の階段 -
1.笑顔

私は昔から人を笑顔にすることが好きだった。
無口で趣味に没頭している父、厳しめの母の元5人家族3人兄妹の2番目に生まれた。2歳違いの兄とはよく喧嘩をするものの、7つ年の離れた妹を笑わせるために昔から変な行動をすることが多かった。友人も少なくなかったと思う。私の変な行動を面白いと受け入れてくれる友人に恵まれていた。
中学の時もバドミントン部に所属し会計係、レギュラーを抱えながら部員の応急処置も行っていた。足を捻った部員や転んだ部員の手当をすると「やっぱラクになるな」と笑顔を向けられる。
そんな経験からか気がついたら看護師になっていた。体力的にも精神的にも辛い仕事だけれど、やはり笑顔の患者やその家族を見る度に「うん。これでよかったんだ」と自分まで笑顔になれていた。

「石橋さん!」
師長の呼ぶ声に我に返る。
ここは急性期病院のHCU病棟。主に重症の患者が入院し集中的に治療をする場所だ。親戚に説明する際によくICUと間違われるが、ICUよりは重症度は低めだ。それでも患者の容態は極めて不安定なため自分が携わるすべての業務が患者の容態に関わってくる。
そのような緊張感溢れる場所で2年目の看護師として私は日々、忙殺されていた。
とても忙しい職場だが、経験豊富なベテランの先輩や個性的な同期に支えられ何とか仕事をこなしていた。
「はい!」
師長に呼ばれたため、即座に反応する。師長の顔を見ると少し表情が曇っていた。
「私何かやらかしたか?」と不安をよそに師長は「今、血液内科の先生から連絡があったんだ。健康診断のことでちょっと話したいことがあるからすぐ来てくれって…私も一緒に行くよ。」とよっこらせと師長はデスクから立ち上がった。

そう。健康診断。
この日は忘れもしない2021年7月7日。
本来は4月に行われる予定だったのだが、新型コロナウイルスの関係でズレにずれ込んでようやく夏に行われたものだった。
去年もやっていたため大まかな流れは分かっていた。その時私は「まあ何も無いだろう。まだ若いし。あったとしても…糖尿病とか?ご飯気をつけてねーくらいかな」と軽い気持ちで検査諸々を受けていた。
軽い気持ちで受けていた分、先生から呼び出された私は生きた心地がしなかった。
背筋がゾクッとし、震えるほどの寒さを感じるのに心臓は跳ね上がったかのように動いていて熱い。人生であそこまで強烈な嫌な予感は感じたことがなかった。
HCU病棟は2階、血液内科の外来は1階。階段を師長と降りながら話していたが、ほとんど話は入ってこずいつもなら一瞬でかけ下りる階段がとても長く感じた。
それでも心のどこかで「まだ自分23歳だし、元々白血球多い体質だったからそれで疑問持たれているだけかもしれないし…。まあ、大丈夫でしょ」と思っているフシもあった。

ドアをノックし師長と一緒に血液内科の外来へ入る。白衣を着た先生がパソコン画面を開き待っていた。先生の硬い表情とは別に「あまり見たことない先生だな」と考えていた。私の勤めていた病院はコロナの関係で呼吸器・血液内科病棟を閉鎖しそこをコロナ専用病棟にしていた。そのため、血液内科は外来のみ、呼吸器は循環器内科病棟にねじ込む形として機能していた。
そんな先生が私に向き合い「最近疲れやすかったりしませんか」と質問してきた。
確かに疲れるが家に帰れば私を20万円のベッドマットレスが出迎え、瞬殺で癒してくれる。私が一番お金をかけた家具であるベッドマットレス。その子のおかげで私は疲れ知らずだ。
「いえいえ、全然。仕事も先輩にフォローして貰ってますし、そこまで…」と返事をする。
先生はそうですかとパソコンに向き合いしばらく考えている。あれ、やっぱこれダメなやつか…?沈黙が重い。私は場の雰囲気から萎縮し師長と目を合わせ、先生の言葉を待った。なんだか動悸がし、呼吸が自然と早くなる。この空間が一生続くような感覚に見舞われ、不安を隠すのが難しくなってきた時に先生が重い口を開ける。
「あのね、白血球が増えていて、ちょっとだけど貧血と血小板の機能も落ちているのよ。それで、LDHって言って細胞が破壊されると上がる数字があるんだけどそれが500ちょっとある。私は正直、どれだけだるそうにしている人が来るんだろうって身構えていたんだよ。でも、石橋さん全然元気そうだし、もしかしたら貧血なのかなって思ってたんだけど。」と説明される。
私の思考がピタッと止まり次の瞬間とてつもない勢いで情報を整理しだす。
細胞が破壊?LDH500?え、正常値の2倍じゃね?だるそうにって言っていたけど、この数値的にだるくなってもしょうがないってことか?と脳内はパニックになる。
でもまだ続きがある素振りのため「…はい」とかすれる声で反応をする。
先生は私の反応にゆっくり頷き「これ精密検査した方がいいと思ってる。がんの専門病院か大学病院に紹介状書くから明日、行ってきて。」と言われた。
衝撃だった。がん専門病院?大学病院?そんなにまずいのか?私こんなに元気に働いていたのに。
がんってなんだ?私まだ23歳…そうまだ23歳…嫌だ、死ぬのか?受け止めきれないと脳内では言葉が溢れ出るのに、私は代わりに涙が出ていた。
大人気なく泣くことしかできなかった。
師長と先生は困ったように私を見つめている。私は泣きじゃくりよくわからず師長を見つめ、「どうすればいいんですか…」と絞り出すように伝えることしかできなかった。

しばらく気持ちを落ち着かせ、先生に掠れた声で「検査、行きます」と伝えてからは早かった。HCU病棟へ戻り、仕事をしながら紹介状が完成するのを待った。
その間に、師長に促され実家へと連絡した。
社会人になってから2年。数える程度しか家に帰ってなかったため、受け入れて貰えるか心配しながら電話すると「はーい」と母が電話に出た。ようやく気持ちが落ち着き初めていたのだが、安堵感や恐怖心、そして何より申し訳なさから私は泣きながら母に事情を話した。
母は冷静に話を聞き「分かった。大丈夫。気をつけて来てね」といい電話を終えた。
親より先に亡くなるのは親不孝だとか、漠然と私自身にもあまり良くない言い伝えとかなんだか聞いた事ある気がする。静まり返った休憩室でぼうっと過ごしながらそう考えていた。
しばらくすると再度外来まで来るように連絡があった。師長と一緒に行き、先ほどの先生とまた対面する。
「明日の8時半、がん専門病院に予約入れておいたから、行ってきてね。あ、物自体はね今プレパラートも一緒に作っているから、17時までにはできると思うんだけど、ちょっと時間かかりそうなんだよね。それとね、血液検査なんだけど」と紙を眼前に広げられる。
「実はさ、芽球が血液内に出てたんだ。」
数値は4.5%と書いてある。
師長を見ると「芽球かあ…」と肩を落としている。
芽球、そう、看護学校時代の記憶を探るとすぐに見つかった。赤血球、血小板、白血球のもと、いわゆる血球の赤ちゃんだ。通常は骨髄にいるため血液中には出てこないはず。どうして出てくるのか…これ以上先は考えたくなかった。だが学生時代の思い出や知識が無理矢理私の頭の中に流れ込んでくる。「白血病の特徴は芽球が末梢血、骨髄から多く検出されることで診断がおります」「近年では若年層のがんとして研究されていますが若年層の生存率は高くなく予後は不良の場合が多いです」教師の声が脳内をこだまする。もうやめてくれ、そう思っていたが言葉にはできず泣くしかできなかった。そして何かの勘違いであって欲しいと受け止められなかった。私は芽球が何かを知っていたが受け止めることができず、「芽球ってなんですか…」と先生に泣きながら質問していた。

気持ちも落ちつかせ職場へ戻り17時近くになると師長が出来上がった紹介状を渡してくれた。「本当に気をつけてね」と優しい眼差しで伝えてくれる。急遽体調が不安定になった部下に対し勤務の調整や仕事が増えたはずなのにここまで守ってくれる師長に言葉にできない感謝と尊敬で泣きそうになりながら頷いた。
17時の鐘がなり、職場の仲間達は「早く上がって実家へ行きな!仕事なんて全く残ってないから安心して。」と言い私を家に帰らせてくれた。
まだ、業務残ってるはずなのにな。みんなの優しさに包まれながら職場を後にした。
エコバックに下着や服など1日分の荷物を適当にまとめ、17時半には実家へ向かうバスに揺られていた。
バスに揺られている間は、特に何も考えていなかった。いや、考えようとしなかった。考えたらまた泣いてしまいそうだったから。
気晴らしに持ってきたグミを食べながら荷物を膝に抱え込み、バスの窓から夕日に照らされ赤く輝く海をただひたすら見つめていた。空には既に一番星が輝き始めていた。

実家へ帰ると、母と猫2匹が出迎えてくれた。猫は盛大に喉を鳴らし私の足にまとわりついてくる。ほとんど帰ってなかったのに覚えているものなんだなと関心する。色んな出来事があってもお腹は減るもので夕飯の大盛りカレーを頬張った。その様子を自分でも冷静なのかパニックなのか、現実だと受け止められていないのか、よくわからない気分になった。
食事を取った後、母に今日の出来事を説明する。母は一言「そっか…とりあえず明日の8時半行くしかないね」と頷いていた。
そこに父が帰ってきたため、同じことを説明する。しかし2回反復となると急に現実味が出てくる。本当の出来事なんだと実感が湧いてきて私はまた泣きながら説明していた。そして両親に見守られている安堵感から「死にたくない」と子どものようにひたすら泣きじゃくっていた。

2.夢
やはり現実だ。
眠りから覚めたらすべて夢という結末を願っていた私は部屋の窓に差し込む朝日に絶望を覚えながら起床した。リビングへ行くと父と母がおはようと声をかけてくれた。テーブルには温かい味噌汁と白米、ベーコンが添えられていた。朝ごはんに卵食べれないもんねと母がにこやかに話している。
7時半になり車に乗りこみ、父の運転で病院へと向かった。見慣れたスーパー、コンビニ、今にも倒れそうな家。車内から自分の生まれ育った街を眺め思い出に浸っているとあっという間に病院へと到着した。
受付へ行き紹介状を渡すと呼び出し機器を渡された。どうやら血液内科の先生に呼ばれると、このベルが鳴る仕組みらしい。
両親に促され窓辺の椅子に腰掛ける。ふと、自分はどうしてこの場所にいるのだろうかと我に返る。自分は一体何年後まで生きていけるのだろうか。そんなことを考えていたが5分経たずにベルが鳴った。両親と一緒に扉を開けると、眼鏡をかけた若い男性医師がパソコンを開き待っていた。奥には女性看護師もいる。
緊張していると先生の方から明るく挨拶をしてくれた。ホッと緊張の糸が緩む感じがするのと同時に、まだ疑惑だが「がん患者」として受診している現実に涙腺が緩む。
職場での健康診断データを見た後、先生からレントゲンや採血をして、採血の結果次第で骨髄穿刺を行うかどうか決めていく旨を説明された。私は先生の説明を聞いている間も不安でしょうがなかった。これが現実だなんて信じられないし、受け入れられないことにずっと涙を流して聞いていた。
ベルの支持に従いまずは採血をすることになった。私は採血が苦手で以前倒れた経験があった。検査技師さんにその旨を申し訳なく思いながら伝えると快くベッドへ案内してくれる。採血の本数をチラッと見るとざっと10本はあった。「ひっ」と思わず声に出し怯える私を見て技師さんは「大丈夫。痛くないようにするから」と声をかけてくれた。
確かに痛くなかった。すごく上手だった。採血中ぼうっと天井を見ていると何故か涙がこぼれてきた。本当にいきなりで自分で意図していなかった為、すごく驚いた。検査技師さんが「どうした?大丈夫?」と声をかけてくれる。私は技師さんに「いきなり昨日の今日でがんかもしれないからって紹介されてまだ信じられて無いんです。これからどうなるのか自分は死ぬのか不安でしょうがなくて…どうして自分なのか何かしたのか分からなくて怖くてしょうがないんです」とさっき会ったばかりの人に涙ながらに語っていた。技師さんは「そう。とても辛いよね。まだ若いし整理つかないよね。でもね、この病院に来ている患者さんはみんながんに罹って来ている。これだけ大勢の人達がガンに罹っても治療を乗り越えて生きているんです。だから石橋さんだけが亡くなるとかそんなこと絶対にないです。先生もそのためにこれだけ多くの採血オーダーを入れているんです。みんな石橋さんを救うために全力を出してくれます。だから、一緒に生きましょう。」と優しく強く声をかけてくれた。
この言葉に勇気づけられ感動しながら「はい」と涙ながらに反応を返した。
その後もベルの鳴るまま、採尿・レントゲンを終えてまた先生の診察が入る。
採血の結果は末梢血検査で芽球が7%検出されたことからすぐに骨髄穿刺をすることになった。
突然だが、なぜ白血病が疑われる時に骨髄穿刺をしないといけないのか簡単に説明しようと思う。結論から言えばがん細胞を発見する為だ。
白血病は血液のがん。そして血液は骨髄から作られる。つまりそこに原因があるということだ。骨髄は骨の中にあるため、骨の中に針を刺し骨髄液を採取し調べる必要があるのだ。
このように人生で初めて大掛かりな処置を行うため、心臓が張り裂けそうな程緊張していた。窓辺の椅子に座って待っていると、母が兄と連絡している。そういえば、昨日から兄とは会っていない。母に電話を変わりたいことを伝え、代わってもらう。すると「大丈夫なのかよ。仕事終わってスマホ見たら連絡来てるもんだから何事かと思って。とにかく今から行くから、落ち着いて。お前が泣くな。俺も泣きそうになる。」と焦りと不安混じりの震えた声が聞こえる。その声を聞いて本当に大事になってしまったこと、そして現実であることを実感し私も涙を流しながら、ただひたすら謝っていた。
ここまで心配かけさせてしまって申し訳無いと思ったからだ。兄は謝らなくていいから、大丈夫だからと声をかけ続けてくれていた。
電話を終えてしばらくすると処置室から名前が呼ばれる。
入室し、血圧や体温を測るとベットに案内された。
初めての骨髄穿刺は、とにかく痛かった。
看護師の言われた通りベットで横向きになるのだが、まず先生が何をしているのか分からない。私も看護師であるがHCUでは骨髄穿刺を行う場面は無いため全く何が起こるか分からなかった。その不安を察知してか先生は何をしているか声を掛けながら事を進めてくれた。麻酔を皮膚、骨の表面にかけていくのだが麻酔をかける時も経験したことの無い痛さに襲われる。見えないと痛さは倍になるのかと感じたことを覚えている。
そして髄液を取られる時は体の内側から何か大切なものを引っ張られているような、経験したことない不快感と強烈な痛みが襲ってきた。私は処置室で痛いと泣き叫んでいた。
看護師が大丈夫といい、手を握ってくれるが痛いのは体だけではなかった。心も痛かった。
なぜ、こんなことをしなければならないのか。どうして家族をここまで心配させなければならないのか、なぜ、なぜ私なのか。理解が出来なかった。
終わった後は止血のため15分ほど仰向けになる必要がある。その時に母が近くにいてくれたのは本当にほっとした。母は心配そうに痛かったかどうか聞き私と会話をしてくれた。
止血が終わり再度先生に呼ばれると骨髄穿刺の詳しい結果が出るのは1週間ほど時間が必要なことが説明されたが先生が骨髄液を見た所、ほぼ確実に急性骨髄性白血病で診断が降りるだろうからまた明日来てくださいと伝えられ私達は病院を後にした。
時間は14時。
父は時計を見て今から職場まで車を出すから休職願を出しに行こうと言った。私は疲労困憊だったが、家族の都合がつかないとのことで渋々車へ乗り職場へと向かった。
職場へ近づくにつれ見慣れた景色が車内から見えてくる。通勤の時に通る道、同期や後輩と一緒に歩いた道、いつものスーパー。そのすべてがとても尊く感じた。こんなにも一瞬ですべて消えてしまうのかと。職場へ到着し、総務課へと向かう。
見慣れた職員に突然来て申し訳ないと謝罪し、休職願を提出したい旨を説明する。説明している間もこんな自分が情けなくて悔しくて、申し訳なくて涙が溢れてきた。部長も会議だったのだが抜け出してきてくれ「絶対に大丈夫だよ。待っているから。石橋さんの居場所が消えたわけではないし、私たちが守るから。だから安心して治療してきて大丈夫。」と力強く話をしてくれた。書類手続き諸々が終わり、次はHCU病棟へ挨拶も兼ねて行くことにした。近くのスーパーで買った菓子折りを持ち職場に顔を出すと自分の元へとみんな来てくれた。同期は泣きながら、どうして石橋が行かなきゃいけないのと嘆き、先輩は目を見開き信じられない、受け入れられないという表情で私の話を聞いていた。その反応を見て一体自分がどれだけ必要とされていたのか痛感し、病気に対する悔しさで心が埋め尽くされていった。
病気になってようやく自分が周りからどれだけ愛されていたのか理解することができたのだ。
そして私の心もその温かさに癒され、自然と涙が出ていた。
職場への挨拶を終え、次に向かった場所は私が1人で暮らしていたアパートだ。
闘病生活が開始になると毎月家賃7万円の出費は社会人2年目で貯金もあまりない私にとって大打撃になるため引き払い、実家に身を寄せることにした。
もう日は傾き初めており、父母私が大急ぎで洋服や小物を車に積み込んでいく。
するとそこに兄の車が到着する。私の顔を一瞥し、静かに荷物の積み込みに参加していった。
ここでセミダブルのベットマットレスをどうするかと話し合いになった。母は実家に入れられないため捨てようと発言したが、私は洋服や家具は要らないからベットマットレスだけはどうにか持ち帰らせてくれと懇願した。
睡眠にこだわっていた私がとても大切にしていたベットマットレスだったこともあるのだが、これを手放したらいけない気が何となくしたからだ。父と兄は私の気持ちを汲んでくれとりあえず持って帰る方向性になった。

大量の荷物を積み終えたが、私はまだ部屋に残っているソファにそっと腰掛けた。
退去の事は父が保証人になっているため、父名義で行うことができるだろう。資料は既に母に渡し、一つ一つ説明してある。分からなければ実家で私が電話口でやればいい。
そして私は骨髄穿刺の結果次第で治療に突入するはずだ。
つまり、この家とお別れだ。
入職したての春、新築のこの部屋は疲れて帰ってきた私を木の香りで出迎えてくれた。
夏が近づくと同期とこの家で酒盛りをし、彼とのんびり映画を見て過ごしたりした。
秋冬の寒い時期は備え付けのエアコンで暖を取り、寒さで洗濯物が乾かない時は浴室の乾燥機を使って「現代は素晴らしすぎるっ!!」と歓喜し、1人で喜んでいた。
一人の時はソファに寄りかかりながら本を読んだり、筋トレをしたり、ご飯を食べたり。彼と喧嘩をしたのもこの家だ。1週間前に振られたばかりでようやく傷が癒えてきたのに、病気が発覚するなんて。
「昨日の朝までは、いつも通りだったのにな。ごめんね。ありがとう。」と誰もいない空間に声をかける。自分の声がこだまし、無性に虚しくなる。離れたくない。この場所からこんな形で離れることになるなんて思わなかった。病気のせいで職場、上司、同期、家、自分の力で培ってきたものが一瞬で奪われてしまった。あんなにも毎日が輝いていたのに、その輝いていた当たり前の日常が私の手から水のように滑り落ちていく感覚に襲われる。「悲しいね」と呟き私は1人で泣く事しかできなかった。

3.希望
実家に戻ってからまずはベットマットレスをどうにかしようと、父と兄が奮闘していた。部屋数が少ないため妹と共同部屋、2段ベットの下段が私の居場所だ。兄がマットレスの長さを測り、シングルサイズの2段ベットにマットレスを押し込んでくれたおかげで捨てる必要は無くなったのが幸いだった。
私は兄と父にずっとお礼をいい、その日はいつもと変わらないマットレスで眠りについた。
次の日、確実な診断を得るために両親と病院へと向かっていた。昨日と同じように呼び出しベルを取り、先生の診察を待った。
ベルが鳴り、診察室へ入室する。私の目は泣き腫らし、パンパンに膨れ上がっていた。もう、終わりだと思っていると先生から「昨日の結果なんですけど、骨髄液内のがん細胞の数が9%でした。急性骨髄性白血病と診断するためにはこの数字が20%以上にならないと診断がつかない状態なんです。石橋さんの場合は末梢血に7%出ていたのでほぼほぼ80%は出るだろうと予想していたのですが、ある種共存しているような状態になります。これは本当に珍しいです」と説明を受け、家族一同パソコンの画面に釘付けになる。先生が話を続ける。「ただ、芽球が出ている時点で何かしらの血液疾患であると考えられるのは確実です。主に慢性骨髄性白血病、骨髄異形成症候群などが考えられます。他の病気が浮上したことで外注している遺伝子変異の結果が返って来ない限り、治療を行うことは控えた方がいいかと思われます。もし仮に慢性骨髄性白血病の場合飲み薬だけでコントロールすることができますし、仕事も普通に行うことができます。」私は一筋の希望に胸を踊らせた。病気であることに間違いはないが、飲み薬でコントロールしつつ今までの生活ができるのであればそちらがいいに決まっている。少なからず今すぐ治療しなければならないほど命に危機が迫っているわけではないのだ。私の目に涙はもうない。「なので治療の前に卵子凍結をオススメします。大学病院に紹介状を書くので話を聞きに行くのもありです。」と先生は話を続けた。
抗がん剤治療を行うと卵子も傷が着くため妊娠しにくくなることがある。そのため、卵子を凍結し体外受精させ妊娠できるように残して置くことが出来る。
私も少しでも可能性が残るならとはなし、翌日に病院へ行くことにした。診察室を後にすると両親がふーっと深く息を吐き安堵の表情を浮かべていた。両親の安心した表情を見て私も安心したが「妊娠か。」と心にもやがかかったまま帰路に着いた。

3.選択
翌日、私は兄の運転で大学病院へ行き卵子凍結の話を聞いていた。卵子凍結は簡単な話ではない。女性の体内で毎月生成される卵子は1個のみのため2週間程度卵子誘発剤を自己注射し大量に卵子を生成する必要がある。費用は保険適用外になるため実費になる。だが近年、システムが見直され自治体によっては20万円ほど保証金が降りる場合があるが計50万近くは費用がかかってしまう。
そして、卵子凍結が成功しても確実に妊娠することができるとは限らない。卵子凍結を行い体外受精で妊娠できる可能性は5〜20%程だと説明される。
私は先生の話を聞きながら、この数日で人生のあらゆる選択を迫られていることに気がついた。卵子凍結も本来健康ならする必要はないのだ。ゆっくり時間を掛けて決定していけばいい事案をこの一瞬一瞬で決定していかなければならない。昨日の説明だって、本来なら診断名が着くはずがつかなかった。自分の体が一体何の病気なのか分からないまま宙ぶらりんで過ごしている。現状どういう状態かもハッキリしていないのに、将来のことなんて考える余裕なんてあるわけない。彼氏とも1週間前に別れているわけだし。何故ここまで卵子凍結をしようとしているのかと言うと、両親の意向が強かったためだ。特に父は昔ながらの考えを持っており、女性は子どもを産み育ててこそ幸せだと考えている節があった。家でも父の言うことは絶対でありその選択が間違っていても揺るがなかった。そのため、私が産まないと言う選択をする余地など無かったのだ。
それに先程書いた通り、将来のことなんて考えている余裕も無かったため周りに促されるまま話を聞きに来たようなものだ。
『疲れた。もう子どもとかどうでもいい。』
表面は卵子凍結のパンフレットを見ながら先生の話を聞いているように見えるだろうが、私の心は既に疲労困憊だった。
「とりあえず、今日卵子誘発剤を注射していきましょうか」先生の言葉にハッとする。今日から打てるのか。私は自分の意思が無かったため、父に連絡することにした。父に連絡すると今日注射を打って今後体調が悪くなるようであれば辞めればいいと言ってくれたため、注射をし帰宅することにした。
注射を打つ時は不思議な感覚だった。特にこれと言った副作用は出なかったのだが何だか全身がどっと疲れ、立ち上がろうとすると目眩と多少気持ち悪さも襲ってきた。
看護師が異変に気づき、私をベッドに寝かせ休ませてくれた。兄も心配そうに見守りながら私が休んでいる間に会計を済ませてくれていた。
横になりながら自分はもう普通ではないこと、ひとりじゃもう何も出来ないことを考えながら目を瞑り休んでいた。

4.混乱
土日は家族と鎌倉にある鶴岡八幡宮まで行き、祈祷を受けることにした。骨髄穿刺した部分が痛くて正座ができない私の代わりに両親は額が床に着くくらいお辞儀をして祈祷を受けていた。その様子を見て胸が痛む。その後はドライブしてラーメンを食べることにした。久々に家族と食べるラーメンは美味しかった。ラーメン屋の前には海が広がっており、水面が太陽に反射してキラキラ輝いている。その眩しさに目を細めながらこの時間がずっと続けばいいのに。そう感じていた。
週明け、とりあえず1週間近く時間があるため、アパート撤去のことについて考えなくてはと思いつつ、母と一緒に家事を手伝っていた。
働き始めてからの様子や家で起こったたわいのない話をし、病気のことをほんの少しだけ忘れようやく私も心から笑うことができ始めていた。
夕方頃に自分のスマホに見たことない番号から連絡が入る。職場かなと思い、慌てて電話に出ると病院からの連絡だった。血の気がサッと引き、ドグンッと脈を打ち息が一瞬止まった。ブワッと汗が吹き出し背筋につたっていく。そして小刻みに震え出していた。震えを止めようと全身に力が入るがその筋力をもっても震えを止めることはできなかった。一瞬止まった心臓が経験したことない速さで脈打つ感覚がし、その苦しさから私は胸に手を当てていた。母が私の異変に気が付き口パクでどうしたと聞いてくる。今にも消えそうな声で「病院から…」と返事をする。
まだ、いやもしかしたらがんじゃありませんでしたという結果なんじゃないか、その一筋の希望に縋り呼吸をする。
先日お世話になった先生の声が電話口から聞こえる。
「骨髄穿刺の結果なんですけど届きまして、やはり急性骨髄性白血病で間違いないとのことでした。」
「はっ…」
呼吸を吐き出した瞬間、膝から崩れ落ち床にペタンと力なく座った。何の涙かも分からないがただただ涙が目から溢れ出ていた。私の様子から先生が「大丈夫ですか?少し待ちますね。」と私に時間をくれた。少し呼吸を落ち着かせ、「大丈夫です」と返事をする。
何か先生が話していたが、ショックから何を話していたのか分からずほとんど理解することができなかった。その様子を感じ取った先生は明日病院に来て、対面での説明を提案してくれたためお願いすることにした。
電話を切った後は、立つ力が足に入らず座り込んだまま死にたくないと泣き叫びほぼ発狂に近かったと思う。よく小説で癌と診断された時は思いのほか静かに過ごせたとか落ち着いていたとか書いてあるのを見ていたが、心の底から激情が込み上げてきて私はそんな落ち着いていることなんて到底できなかった。
妹はその様子を見て私の傍らで静かに泣いていた。母は父に連絡し、その後私のことをずっと宥めてくれていた。
宥めてくれていたおかげでようやく少し落ち着き、とりあえず立つことが出来た。
私はその時、どこを見ていたのか分からない。
家族や階段が見えていたのか、どうやって歩けていたのか覚えていないが自室へ静かに戻っていった。

5.普通
翌日、父の運転で病院へ行き先生から説明を受けた。骨髄のがん細胞の数では診断がつかなかったが染色体異常により急性骨髄性白血病と診断が付けられたことを伝えられる。
その時は私はただひたすら泣いていた。泣いてもどうしようも無いのだが泣くことしかできなかった。
それでも私は先日の卵子凍結で先生から聞いたことを伝える。私の場合は、血球の数値も激しく低下している訳では無いことや自覚症状もないため卵子凍結を優先しても問題ないだろうと言われ、すぐ入院して治療するか、卵子凍結を行うか再度選択が迫られることとなった。
卵子凍結を優先する場合、1週間に1度通院して採血を行い血球の状態を定期的に見ていくと伝えられる。私は診断が着いたのであれば早く治療したいと思っていたが、嗚咽があり上手く言葉に出てこない。そこで父が体調が悪くなったらすぐ入院して治療を開始する方向性じゃいけないか先生に提案するとそれでも大丈夫だと伝えられ、私は頷くことしかできなかった。
私の気持ちは早く治療を開始して病気を治したかったのだが、両親の気持ちも分かることや今後仮に妊娠できなかった時に後悔したくない気持ちももちろんあった。
だがそれ以外に、単純に治療が怖い思いの方が強かったため、時間伸ばしのために頷いているふしがあったのはここだけの話だ。

家に帰ってからインターネットで急性骨髄性白血病のことについて検索し続ける。
5年生存率や若くして亡くなった芸能人、ブログでも亡くなった方がいたことから私は絶望した。なぜか悪い情報しか入ってこない。「生きれて5年か…」ボソッとベットに横たわり呟く。生存率の低い数字を見る度に心臓がバクバクと音を立てて鼓動しているのが伝わる。ここでハッと同じ病気にかかり、最近復帰した水泳選手のことを思い出し検索をかける。そうすると、各種新聞会社やインターネット記事で白血病は治る病気と大々的に記載されていた。だが、その水泳選手がかかったのは急性リンパ性白血病。私のとは少し違う。私が知りたいのは急性骨髄性白血病の生存率だ。同じくらいの年齢の時に罹患して治療して治って、家庭を持っていたり仕事をバリバリこなしている人もいるはずなのになぜか見つからない。今目の前にある記事が私の状態の全てのように感じ取れてしまう。
「もう、分からない…」
窓の外を見るといつも見えるはずの星が雲に隠れていた。私はスマホを投げ出しそのまま泣き疲れ眠りについた。

卵子誘発剤の注射を打ち続け、1週間後血液検査を受けると白血球の増加が見られていた。先生はまだこの数値なら大丈夫だと言ってくれていたが、私はもう治療に入りたかった。
するといつも奥にいた女性看護師が私に声をかけ、別室へ連れて行ってくれた。
看護師さんは私に対して目線を合わせ優しく声をかけてくれる。近頃の体調や眠れているのかたわいない話をした後「石橋さんの本当の気持ちが知りたいなって先生とお話していたんです。大丈夫。今の石橋さんの正直な気持ちを教えて欲しいんだ」と話される。私は自分の本当の気持ちがバレていた恥ずかしさやそれでも合わせてくれていた先生や看護師に申し訳なさを感じ泣いてしまった。泣きじゃくりながら治療に入りたいことを素直に伝える。
この一週間で色々考えることができたのだが、ここで卵子凍結を優先したとして今後体調が悪くなり治りませんでしたってなったとする。
そうすると「卵子凍結なんてしなければよかった。早く治療に入ればよかった」と後悔することになる。それに根本的に今の自分の状態が不安定なのに未来を描けるはずもない。
そしてそもそも妊娠とは奇跡の連続で起きるものだ。病気をしていない若い男女でも1回の性行為で3割程の確率なのだ。
まずは自分の体が1番だと結論は出ていたのだが抗がん剤により妊娠できる確率が下がるのは間違いないためそれを両親に伝える勇気がなかった。看護師さんがこの場面を作ってくれなければ私は伝えることができなかったのでは無いかと今でも思う。
その話をする場を作ってくれた看護師さんと先生を私は一瞬で信用した。そして看護師さんに今まで溜め込んでいた不安を泣きながら話をした。今まで元気だった自分がいなくなり、まるで自分が自分じゃ無くなるような感覚に襲われることや自分の力で培ってきた居場所が無くなっていくこと、病気に支配されて精神的に辛いことを話す。すると看護師さんは「『病気になった石橋さん』じゃないんです。石橋さんは石橋さんのままなんです。白血病だからと言って石橋さんのすべてが変わるわけではありません。人を笑顔にするのが好きな石橋さん、紅茶が好きな石橋さん、オシャレや美容が好きな石橋さん、働くことが好きな石橋さん、それは病気を理由に潰していい石橋さんじゃないんです。私たちはそれを全力で守りますしサポートします。だから大丈夫です。」と温かく声をかけてくれる。
覚えたことの無い感情が込み上げてきた。一言で言えば「感謝」の気持ちなのだが、この人のこの力強い言葉はどのような場面を乗り越えれば出てくるのかその言葉で一体何人救ってきたのか底が見えず、尊敬と畏怖の念も抱いていた。
その日のうちに入院日が決定した。
家に帰ってから、幼い頃からお世話になっている祖父母に電話をかけた。私は大のおじいちゃんおばあちゃんっ子だった。学生の頃はもちろん、大人になってからも長期休みが貰えるとよく祖父母の家まで行き、一緒に過ごしていた。
そんな私をいつも温かく出迎え、美味しいご飯を振舞ってくれていた。少し仕事が大変で落ち込みそうな時に電話して話を聞いてもらったこともあった。久々の電話が孫ががんになりましたなんて言う電話なんて、祖父母の立場からしたら溜まったものじゃないだろうがしばらく会えないかもしれないと思い電話をかける。
2人はとにかく驚いていた。どうして、どうしてと混乱しているようにも見えた。私はどれだけ不孝な孫なんだろうかと身がちぎれそうな思いに襲われながら30分ほど会話をした。
家でゆっくり過ごし、入院の前日にいつもお世話になっている美容師に会いに行った。
抗がん剤が始まると脱毛が始まるため、髪の毛を短くしていこうと考えたのだ。「本当に大丈夫??」事情を知っているいつもの美容師さんは心配げに私を見てくれた。高校3年生の頃からすでに5年お世話になっている美容師さん。私の髪の軌跡を知り尽くしており信用していたからこそ、この人に髪を短くして欲しかった。
たわいない話をしていたら肩甲骨あたりまであった髪が肩まで短くなった。人生で初めてショートにしたのだが、これが思いのほか似合っていた。「いいじゃん。清楚な大人になった感じ!」と美容師さんも褒めてくれる。
「急だったしどうしようと思って近くの神社のお守りなんだけど…」お店を出る時にお守りを渡してくれた。
ここでこの関係終わりにしたくないなと悲しさと自分の無事を祈ってくれている優しさに感謝しお礼を伝え必ず治療が終わって髪が伸び始めたらまたやって欲しいと伝え店を後にした。
よく晴れた夏の日。
私は入院した。

6.戦闘
入院する前に家族と先生の話があり、私の正式な白血病の種類がわかった。正式な病名は「RUNM1-RUNX1T1を伴う急性骨髄性白血病」ということだ。今回は骨髄検査による遺伝子変異で見つかったのだが国家試験に出るような素直な遺伝子変異であり、私の場合は化学療法のみで治癒が70%程見込まれると説明があった。また、私のような予後良好郡は全体の白血病患者の2割ほどしかいないことも明かされた。インターネットで5年生存率の低さを見ていた私は70%と言う数字が信じられなかった。先生の説明を聞いていると白血病を初めとした血液がんの治療は発展途上であり毎年データが更新されていっているとのことだった。
私はインターネットで自分の病気を検索することはやめたようと決意した。インターネットが追いつかないほどの速さで血液がんの治療は進化していっている事実。その最先端にいる先生の言葉を信じた方が精神衛生を守ることができると考えたからだ。
私はこの病気をして自分が思っている以上に状況を理解する能力があることが分かった。状況を理解することができなければ悲嘆することすらできない。でも自分は診断名を告げられたその瞬間に事の重大さを悟り悲嘆することができていた。通常なら理解が追いつかず悲嘆することすらできないだろう。小説の中に登場していた人達はその可能性が高い。思わぬ所で新たな自分の長所に気がつくことができた。
無菌病棟は無菌が守られており、デイルームやリハビリするところも完備されていた。機械の音がうるさいかと思っていたのだが、静かでありデイルームで他患者と会話することもできた。他患者も同じ病気と戦っている仲間でもあるため年齢性別関係なくみんなで楽しく過ごすことが多かった。
大部屋もあったが私は個室に入ることができた。個室は6畳〜8畳ほどの広さでトイレ・シャワー室が完備されていた。他患者から抗がん剤投与中は下痢に見舞われることがあると聞いていたためトイレが近くにあるのは安心した。
抗がん剤投与を開始するまで、私は安寧を得ることが出来ていたと思う。

皆さんは抗がん剤はどうやって投与されるかご存知だろうか?もちろん点滴で投与されるのだが、想像するような腕から点滴するのではない。中心静脈と呼ばれる心臓に比較的近い太い静脈に針を刺しそこから投与する。場所としては鎖骨の下あたりか首に挿入することになる。なぜそこまで大掛かりなことをするのか言うと、抗がん剤は通常体内にあるものでは無いため、血管外に漏れると大変なことになる。それを避けるために敢えて中心静脈を選択しているということだ。
挿入中は基本無菌操作になるため手術ドラマで見るようなドレープと呼ばれる布が覆い被さる。これがまず暑い。そして麻酔をするため痛くはないのだが、やはり自分の体内に何か入ってきているような感覚はするため違和感があり落ち着かない。時間としては30分くらいかかるのだが暑いし落ち着かないしで緊張しっぱなしだ。無事挿入が終わっても数日は痛い。
痛さが引いてきたかなと思った時に抗がん剤投与開始となった。私の場合はダウノマイシンを5日間、それと併用してシタラビンを1週間投与する予定になっていた。
投与初日、ダウノマイシンを見た私はその赤い色に恐怖し涙した。こんな明らかにやばい異物ですってアピールしている物が自分の体の中に入るのかと。
そしてこれが投与されれば、いよいよ私の体内で戦闘開始だ。投与中は怖がる私を見て看護師さんが近くにいてくれた。点滴ルートをヒタヒタと赤い色が侵食していくのを眺めていると今後見舞われるであろう吐き気や下痢などの恐怖からルートを引きちぎりたくなったが必死に我慢した。投与は痛みも何も無く無事終えることが出来た。
そこから2日間は強い吐き気止めの薬を入れていたことからご飯もしっかり食べることが出来ていたが2日目の昼から急に吐き気、倦怠感に襲われた。
そして今文章を書いていても日記を見ないと思い出せないほど、忘れたい辛い症状が私を襲うことになる。
3日目になると、まず下痢・腹痛が私を襲った。それに伴って吐き気、そして38度超えの発熱も出現する。今までスマホを見る元気があったのだが、トイレ・シャワーがやっとの生活になっていきほぼベッド上で横になって過ごしていた。この日は4連休2日目であり、医師は当直医しかおらず専門医がいなかったのを覚えている。夜になっても下痢は止まらず、お腹に少し力をいれるだけで出てしまいそうな感覚があった。そして次第に目の前にボヤがかかったような感覚があったが私はそれを「なんか霞んでいるな…寝すぎたかな」とあまり気にしていなかった。だがトイレに行こうと立った瞬間、頭から血の気がサッと引き目の前がグワンッと上下逆になるような感覚に襲われた。ベッドに座り、ナースコールを慌てて押す。看護師さんに起こったことを説明し血圧を測ると上が100ほどあった。再度一緒にトイレへ行こうとするが、数歩歩いたところで立っていることができなくなり床に膝から跪いてしまった。それと同時に強烈な吐き気も襲ってくる。2日目の夜から食事を抜いていたことや下痢で全て流れてしまっていたため吐き出そうとしても空気しか出ず苦しかった。その頃にはもう何も考えることが出来ず死の恐怖すら感じる余裕がなかった。「まずいな…」と看護師さんが呟き、1番近くて安全な場所のトイレまで何とか歩き座らせ、医師に連絡しに行った。トイレへ座るやいなや下痢が私を襲い、また目の前がふらついてくる。「今、倒れたら私はまずい」と思い気力で座っていると看護師さんが戻ってきた。力を借りながら何とかベットへ戻り血圧を測ると上が80しかなかった。時間は夜10時。とにかくひたすら横になり輸液全開投与で血圧を保つこと、トイレの際はナースコールを押すこと、明日の朝採血をすることが伝えられ私は静かに頷いた。横になり落ち着いて血圧を測ると90まで戻っていた。トイレの度のナースコールは看護師さんにとっても私にとっても大変なことだった。なにぶんお腹に力をいれるだけで下痢が出る状況のため、1時間に1回、早いと10分に1回の感覚で看護師さんを呼ばないといけない。時には間に合いそうにないと看護師さんが来る前にトイレへ行くこともあった。
「明らかに何かがおかしい」と私自身感じていた。ようやく自分の体の異常さを考えるほどの余裕ができていた。死に対する恐怖もあったが怖がる力が全く出てこずひたすら横になっていた。それよりも、トイレに対する執着心がすごいことに驚いていた。少しの力で便が排泄されてしまうため紙オムツや生理用ナプキンで便をキャッチすることも考えていたのだが、とにかく私はトイレに行って排泄したかった。どんなに血圧が下がって朦朧としてもトイレへ行きたがった。今思えば自分の自尊心を守るためでもあるが、トイレへ自分で行けなくなったらそれこそ最後のような気がしてプライドにかけてトイレへ行っていたように思える。
次第に外が明るくなっていき朝を迎えると休みのはずの主治医が私の元へとやってきた。先生は肝臓の数値が異様に上がり感染の数値も上がっている事を伝え、もしかしたら抗がん剤投与を中止するかもしれないと伝えられた。私は「それくらい、やばいんですか」と絞り出すともしかしたら抗がん剤の影響で数値が変動している可能性も考えられるためその場合は投与を継続すると説明を受けた。私はもしも、ここで自分の体が持たなかった場合のことを考え母に連絡して欲しいと伝えた。昨日から連絡が来ていることは確認していたがあまりにも体調が辛くて返信が出来ていなかったため心配しているだろうと思ったからだ。先生は分かりましたといい退室した。その後私はナースステーションに1番近い部屋へと移り、枕元には酸素マスク、心電図モニターを装着させられた。なぜナースステーションの近くに移ったのかと言うと、トイレのコールが頻回だったこともあるのだが何かあった時にすぐに駆けつけることができる。この時の私は何かあってもおかしくない状況だったという事にもなる。
私は移動する時、休日で看護師さんも人手が少ないことを知っていたことや担当の看護師さんがとても忙しそうに私の身の回りを整えていたところを見てぼうっとしながら「すみません…お昼、行けてないですよね」とひたすら謝っていた。すると看護師さんは「全然大丈夫です!お昼食べたし、何より石橋さんを救いたいから!」と力強く大きな声で言ってくれた。私はそれに安心して小さく頷きそのまま眠りに付いていた。
次の日になると血液内科の中でも別の先生が来てくれて私の病状について説明してくれた。私はどうやら抗がん剤が体に合わなくて起こっている現象であり、正常反応であるらしいということが分かった。副作用が思いのほか大きく出てしまったのだ。心電図モニターもつけているため投与は継続し、循環動態に変動が生じた場合はそちらを優先すると伝えられた。「あぁ、やっぱり体の調子事態は何かあってもおかしくないってことか。」と思っていた。死の恐怖はもちろんあったが、ここまで細かくモニタリングをしてくれて説明をしてくれているのであれば何があってもこの人たちは私を全力で救ってくれると信じることが出来た。
それにこの時点では血圧は上が90〜100あたりまでに回復しスマホを触れるくらい元気になっていた。スマホを開くと高校、専門学校の友人はもちろん、小学校の時の友人まで心配の連絡をくれていた。私は一つ一つ目を通し言葉を考えながら返信していった。私は自分の中では友人は多いのか少ないのか自信が持てなかったが白血病になって何人、何十人も連絡をくれる人の存在がとても温かく嬉しかった。私のために祈ってくれる人、時間を割いて献血に行ってくれる人、骨髄ならいくらでも渡すから生きて欲しいと懇願する人、石橋には笑っていて欲しいとその日あった面白いことを伝えてくれる人。今まで私が笑顔にしようと関係を持ってきた人達からの連絡はどんなに日頃疎遠にしていて連絡をしていなかったとしても私が今まで築いてきたものであり決して無くなりはしなかった。それを目の当たりにし、この人たちの存在は星のように輝いて見えた。もしかしたら、私が笑顔にしようと頑張っていた時もみんなから見たらそう見えていたのかもしれない。
休み休み返信をしていったら、あっという間に夜になっていた。窓の外には一番星が輝き始めている。それをじっと見つめて過ごしていた。

7.覚悟
抗がん剤投与は無事終了した。私の場合は、投与が終了すると同時に戻すような吐き気も消えていった。それより胃腸が何故か食事を受け入れないことの方が私の場合は深刻だった。吐き気が消えれば食事もまともに食べることができるだろうと思っていた私はショックだった。不思議なくらい食べれないのだ。美味しそうな病院食を前にしても全くそそられない。
第一、私にとって食事とはなんだったのだろうか。毎日決まった時間に運ばれてくる食事を眺めながら私は考えた。
ベッドの上で食べるものだったのか?
違う。
トイレが視界に入るところで食べていたのか?違う。
暗い個室で1人で静かに食べるものだったのか?
違う。
「贅沢な悩みだな」とポツリと呟く。
それに抗がん剤の吐き気を味わっていた私は食事を摂ることであの吐き気が再燃するのではと怖かったところもあった。だが点滴でずっと生活するには行かない。生きるためには少なからず口から食事を摂る必要がある。それも分かっている。
自分は生きていたいのか?まだこの治療も地固め療法が3回は続く。ゴールが遠すぎる上なんかもうどうでも良くなってきている自分もいた。
ある日いつも通り食事が運ばれてくると看護師さんが私の元に訪室してくれた。看護師さんは薬のことや体調を確認すると「食べれない?」と聞いてきてくれた。
「分かりません。ただ、今までと食事の摂り方が違っていて色々環境も変わったしまだ付いていけてないのかもしれないです」
そう答えるしか無かった。看護師さんは「そうだよね。こんな暗いところで食べるものでも無いしなんか寂しいよね」と共感してくれた。
きっと、看護師さんも私の体調的には食事を摂れてもおかしくないはずなのに摂れていない状況を心配してくれたのかもしれない。今は生きるとかそんなことは置いておいて、この人たちの為に食べよう。共感の力は絶大でその日のご飯は食べることが出来た。
食事中は看護師さんがずっと私の傍にいて話し相手になってくれた。吐き気の再燃が心配だったから近くに居てくれる安心感があった。それと同時に忙しいのにいいのだろうかと罪悪感から早食いになるがその度にゆっくり食べてと注意される。無事完食すると達成感を感じた。誰かと一緒に話しながら食べるだけでもこんなにも違うのかと驚きもあった。
ゆっくり食べたからか、不思議と吐き気は再燃しなかった。
その日から私は1人でも普通に食べることができるようになった。
食べることができると自然と元気が出てくる。リハビリも先生と一緒に毎日楽しみながらやることが出来るほど元気になっていった。趣味のフランス刺繍も出来るようになり、暗いからとデイルームに移動してやっているとそこで他の患者さんと再会した。会話を楽しみ、「大変だったんだよ〜」と何があったのか話せる自分もいた。
自然と点滴も栄養がたっぷりの特別な点滴から普通の点滴に戻っていき、私は個室を卒業。
大部屋へ移動となった。
大部屋には私以外に3人の患者さんがいた。大体の人は食べることが出来るため食事の時はカーテン越しに話しながら食べていた。


すみません!ここまでしか書けませんでした…!!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?