(短編小説)夕焼けはいじわる
スーパーを出て、買い物袋を前かごに押し込む。飛び出した長ネギをハンドルに添えるように立て掛けて自転車の鍵を開けた。
「よいしょ」
ペダルに左足を掛けて漕ぎ出しながら自転車を跨ぐ。晩夏の夕方の舗道を家へと向かうとすぐに額に汗が滲み始めた。
赤信号で停まった時、夕日が強烈に射して目が眩んだ。
自転車の角度を変えて横を向くと、一直線に伸びる長ネギの影が見えた。今来た道を戻る方へ真っすぐに。
いつの間にか空はオレンジ色に染まっていた。
夕焼けはいつも意地悪だ。
今沈んでいるだぞ、と言わんばかりに空全体をオレンジ色に染めて、圧倒的な力を見せつける。
無力なわたしのちっぽけな今日が終わってしまう。
何も変わらないまま、わたしの、今日が、また終わる。
突然、横から若い男性が飛び出してきた。
わたしの自転車に当たりそうになって、慌てて止まる。紙袋を抱えたその若者は軽く会釈を寄越してから駅に向かって走り去った。とても大切そうに紙袋を抱えながら、胸を張って前を向いて。
この晩夏の暑さも気にならないんだろうな。
わたしだって少し前まではあれぐらい若かったんだよ。あーあ。わたしって。
信号が青に変わり、赤に変わる。
その間、わたしは長ネギの影をじっと見つめていた。
帰ろうか、戻ろうか。ってどこに?
彼はどこから現れたんだろう。ぐるりと見回すと小さい店の入り口が目に入った。こんなところに店があったんだ。小さな看板が出ている。玩具バー。
こんなところにバーがあったなんて、毎日通っている道なのに気付かなかった。ガラス越しにカウンターらしきものが見えた。本当にバーなんだ。
信号がまた青になり、赤になる。鳥が一羽低く旋回して小さな影が舗道を駆けた。夕焼けは容赦なくわたしを照らし続け、自分の影が少しずつ長くなってゆく。
すごい力が地球を回してるんだよね。ものすごい力だからわたしなんかは流されるしかない。だからこの退屈な日々はずっと続く。
どうせ流されるのなら、何処かへ行ってしまいたいと思う。
でも何処へ?
全てを捨てる勇気なんてわたしには無い。
むしろ捨てようとしている人がいたら止めるだろう。鳥のように自由に飛ぶことなんでできっこない。
わたしは結局何も変わらないまま歳だけを取り、ゆっくりとおばあちゃんになるのだろう。あーあ。
再び信号が青になり、意を決してハンドルを握る手を緩めた。自転車を店の前に停めて鍵を掛ける。
少しくらいいいじゃん。
前かごの買い物袋に手を伸ばす。スーパーの袋を掴んだ時に長ネギが揺れて卵のパックが音を立てた。
そのまま手を放した。
いいや。置いていこう。こんなの持ってバーに入るのは何かおかしい気がするし、もし盗られたら今夜は料理は作らない。そんな日があってもいいじゃん。
財布の入ったハンドバッグだけを持ってガラス扉の前に立つと自動ドアがゆっくりと開いた。
小さな冒険の始まりに鼓動が高まる。ひとりでバーに入るなんて初めてだ。平静を装って薄暗い店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ。こちらにどうぞ」
カウンターの中の店員さんが声を掛けてきた。こういう職業をバーテンダーというのだろう。
言われるまま席に付くとおしぼりとメニューが目の前に差し出された。
目の前のカウンターの上には透明のビー玉がひとつ置いてあった。照明が反射してキラキラと光っている。
他に客はいない。まだ夕方だもんなあ。そりゃそうか。
メニューを手に取って表紙をぼんやり眺めた。中を見たってどうせわからない。逡巡しているとバーテンダーさんが声を掛けてきた。
「そちらに載せている以外でもお好みでお作り致します」
そういうのもアリなんだ。確かにわかんないの呑むの怖いもんね。美味しくなかったらガッカリだし。
「じゃあ、あまり強くないやつでお願いします」
「かしこまりました。甘さはいかがいたしましょうか」
甘いモノ。最近食べてないなあ。気持ちの余裕がないと甘いモノを選ぶ気力も無くなる。
「じゃあ、とびきり甘いやつで」
「とびきり、ですね。お任せください」
バーテンダーさんはにっこりと頷いた。
目の前で何種類かのお酒を注いだシェイカーが振られる。静かな店内にカシャカシャと氷の砕ける音が響いた。
やがて目の前にグラスが置かれ、カクテルが注がれた。赤いお酒。綺麗。
溢さないようにゆっくりと持ち上げ、口をつける。
口当たりは柔らかく、とびきり甘い。もちろん種類はわからないが、しっかりとお酒の味もする。口から鼻に薔薇の香りが通り過ぎた。
なにこれ、美味しい。
「これは何ていうカクテルなんですか」
「今、即興でお作りしましたので、名前はありません」
「じゃあ二回目を頼めないじゃないですか」
「そうですね。よろしければ名前を付けて頂ければ。そうすれば忘れません」
「名前、ですか」
カクテルに名前。そんなことできるなんて思ってもみなかった。
「ご自分の名前をそのまま付けて頂いても構わないのですが、それはやはり恥ずかしいと仰る方が多いですね」
「確かに恥ずかしいです」
「ゆっくりと考えて頂ければよろしいかと」
そう言うとバーテンダーさんは視界から外れるように半歩下がった。
ちびちびと甘いカクテルを味わいながら店内を見渡す。玩具バーっていうのはこういう事なんだ。壁際の棚にはびっしりと玩具が並んでいる。殆ど男の子の玩具ばかりに思えた。
逆側を見渡すと棚の一角に見覚えのあるピンク色のステッキが見えた。
あれ、何だっけな。知ってる。セーラームーンのステッキかな?
視界にバーテンダーさんが現れ、真っすぐに棚に向かった。
迷くことなくわたしが見ていたステッキを手に取り、カウンター内に戻る。
「はい、どうぞ」
静かに手渡された。
「手元のボタンを押してみてください」
言われるままボタンを押すと、軽く振動し音楽が流れた。驚いてスイッチを放してしまう。
「押しっぱなしにしてください」
言われるままに力を込めてボタンを押す。
賑やかな音楽と共にステッキは震え、透明部分に小さな白い粒が渦を巻いて跳ね上がった。
「うわあ、すごい。綺麗」
バーテンダーさんはとても嬉しそうに頷いた。
「でしょう? すごく綺麗なんです」
「本当に。魔法みたい」
「こちらは『おジャ魔女どれみ』のスイートポロンと言う玩具です。魔法のステッキです」
おジャ魔女どれみ。知ってる。たしか魔女になりたい五人の見習い少女たちのお話。小さな妹もいた。
毎週わくわくしながらテレビを観ていた。自分も魔女になりたいと思った。
「『おジャ魔女』シリーズは一九九九年から四年間放送されました。かなり人気は高かったのですが、劇中で彼女たちが小学校を卒業したところでシリーズは終わりました」
「ああ、そうでしたね。わたし観てました」
思い出した。確か最終回は卒業式で、どれみちゃんが式をボイコットして立てこもり事件を起こす話だった。
彼女たちは結局魔女にはならなかった。普通に小学校を卒業し、そのまま番組は終わってしまったのだ。
なぜ魔女にならなかったんだっけ。
彼女達が魔女にならなかったので、私も魔女への憧れを失ったことを思い出した。
「どれみちゃんは魔女にならなかったんですよね」
「ええ、そうですね。彼女の仲間も全員ならなかった」
「なんでです?」
「ならない、と決めたからです。彼女たち自身が」
どうしてだろう。観ていたのに覚えていない。ずっと魔女になるために修行してきたのではなかったか。
「魔法はもう要らない、と決めたのです。全員それぞれ自分で考えて決めた」
そんなことがあるのだろうか。魔法少女のアニメなのに?
不思議に思いながらカクテルの残りを飲み干す。
美味しい。もう一杯頼もうかな。でも名前がまだ無い。
バーテンダーさんの解説が続く。
「願い事は魔法に頼らなくても叶えられるということを知ったんですよ。
彼女達は全員、人として小さい願いを叶えながら生きていく道を選んだのです。」
人として。小さな言葉が心に響く。
「美味しい晩御飯だったり、虹の色を数えてみたり、新しい季節を迎えたり。もちろん少しのお酒や小さな冒険も」
バーテンダーさんが言葉を切った時にカウンターに置かれたビー玉の光がゆらりと揺れた。
「そんな、小さいけれど確実な幸せ。そこに魔法は必要ではない、ということなのでしょう」
バーテンダーさんは静かにそう言った。
握ったままのおジャ魔女のステッキのボタンを押すと、小さな粒が渦を描いて跳ね回った。ボタンを放すと粒はすぐに落ちて見えなくなってしまう。とても小さな魔法。
「このカクテル」
「はい」
「とっても美味しかったです」
「ありがとうございます」
「名前は、つけられません」
「そうですか」
ステッキのボタンに再び指を乗せる。プラスチックでできた玩具のステッキ。
私には魔法は使えない。
「今日の魔法に名前をつけるなんて、わたしには無理です」
バーテンダーさんはにっこりと笑うと、メニューを開いた。
オリジナルカクテルの欄には見知った名前が並んでいた。
「今日お飲み頂いたカクテル、実はこのカクテルを少し変えたものだったんです。赤色を強くして甘みを足しました」
バーテンダーさんの指したカクテルの名前は「どれみ」だった。
「どれみちゃんのカクテルがあるんですね!」
初めにしっかりと見ておけば良かった。他のおジャ魔女の名前も載っている。はづき、あいこ、おんぷ、ももこ。
……そうか。
「じゃあこのカクテルは」
言い淀んでしまう。間違っていたらどうしよう。
「そうですね。今思われたその名前にしたいと思いますがいかがですか」
その名前は口にしないでおく。次に来た時にメニューを開いて答え合わせをしたい。
「はい。そうしてくれたら嬉しいです」
カウンターのビー玉の中で光がゆっくりと揺れている。振り返って外を見るとすでに暗くなっていた。
もう夕焼けはどこかへ消えた。地球が回って夕焼けを追い払ってくれたのだ。
小さく息を吐き出し、そのままぼんやりと外を眺めた。
そろそろ帰らなくちゃ。
「夕焼けはお嫌いですか?」
突然の問いかけだった。表情に出ていたのかもしれない。恥ずかしい。
でも正直に答える。思ったとおりに。なぜかそうしたかった。
「はい」
淋しいもん。魔法のステッキを握る力が強まる。
バーテンダーさんの視線がそっとステッキに移動した。この人の目はとても優しい。
こういう職業もあるんだな、と思う。
ここにある優しい世界はとても心地いい。
続く問いかけもまた突然だった。
「もしかしたら、ステーキはお好き?」
驚いて見上げるとバーテンダーさんの目が笑っている。
はい、もちろん。
そう答える前に意味がわかった。この人が何を言おうとしているのか。
吹き出さないように慎重に言葉を選ぶ。
「わたしって、もしかしたら世界で一番、」
バーデンダーさんが吹き出して笑う。つられて私も口を開けて笑ってしまう。
「かもしれませんね」
前かごに置いてきた買い物袋が急に心配になってきた。魔法が解けたのだろうか。
席を立ち、バーテンダーさんにどれみちゃんのステッキを手渡す。
「ありがとうございました。ごちそうさまでした」
カウンターの上のビー玉はいつの間にか片づけられていた。
*
買い物袋からは長ネギだけが消えていた。
まあいいや。ネギがなくてもどうにでもできる。早く帰ってごはんを作ろう。
何も変わらない平凡な暮らしのために。
優しい世界のために。
あーあ。わたしって、世界で一番不幸な美女だ。
(了)
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