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少し未来の自分へ宛てる、なぜ書くのかのnote 《自己紹介#1》


noteの住人になって4ケ月ほど。
で、note上の沢山の作家さんの作品を見たり、自分で本気で書こうと思うようになったのはこの2ケ月くらい。

意思を持ってnoteの中を泳ぐようになって、沢山の素敵な作品に出会ったり、作者の皆さん自らが立ち上げられている企画やサークルなどが多くあるということを知ったりと、まだまだ真新しいことばかり。

週末だけの物書きが走り始めたばかりなので、もちろん、書きたいことをつらつらと書いてきたのですが、プロフィールは正直一番苦手で手をつけず。いや、書かなくてもーと思ってました。

そんなこんなしている時。ある筋のプロの方から「プロフィールは大事だよ。書いて終わりじゃなくてアップデートも。」
といった金言をいただき。

そうかーと思いながらも、やっぱり苦手に変わりはなくて。自分こういう人ですって、話したり、かなりざっくりは書けても、丁寧に残すのはまだどうも苦手。
なので今は。何で書くようになったのかを記しておこうと思います。

少し未来の、書くことに立ち止まった時の自分に宛てて。

🖋



今まで私は、自分で何かを表現するようなことはしてきませんでした。
SNSも、日常の連絡手段として必要最低限に使う程度。
どちらかというと、極力自己表現をしたくないと思っていたほう。

その理由はいろいろあるけれど、一番はおそらく、自分の根底に深く積もった自己否定力ゆえ。
日常に巻き起ってきた様々な出来事の多くを、自己肯定力のマイナスヒットポイントとして吸収してきた結果、できるだけ目立たぬよう、傷つかぬよう、片隅で生きる方へと勝手に自分を育てあげてきました。何か一本の防御線を張るように。

でもここ数年、何だろう、やたらもやもやすることが多くなってきて。
 「自分ってさ。なんなんだろ?」
 「いいの、自分?」
みたいな。

不惑を過ぎて、日常で荒波が立つようなこともそうはなくなり。
1日が、1ケ月が、1年が、想像以上の猛スピードで過ぎていく。

地方の小さな街の片隅でこのまま平坦に年を重ねることに、一種の恐怖のような。いつも着ていた洋服なのに、その姿にある時かすかな違和感を感じるような、もやっとしたものを抱き始めて。


やがて大きく育ったもやもや違和感の塊。
とにかく何かしよう。この片隅にじっとしているだけでは見えないものを見てみよう。
そう思って、あるオンラインサロンに駆け込んだのが2020年5月のはじめ。

サロン内のいくつかのゼミの一つ、岸田奈美さんのゼミで出された課題が、「最近発見したことをテーマに、noteに1000文字程度で比喩を用いた文章を書く」というもの。
この時初めて、noteというものの存在を知り、課題提出のためにnoteの住人となりました。(ちなみに、岸田さんもこの時初めて知ったという人種が、この私。)


自分の中のもやもやの正体と、改めて正面切ってがっぷり四つを組んでみて。この時の課題提出として、初めてのつたないnoteを書きました。

思うがままに書いた脈略のない文章を幾度か書き直し、膨大に膨らんだ重たい言葉を選びなおし、また書いて、書いて。

あれこれもがきながら一言・一文を書くのだけど、それがどこか落ち着くような。大変なんだけどちょっとしっくりくるような。
ぶらーんと、何をするでもなく宙に浮いていた足が、親指の先で確かに地面の存在を感じた時のような、そんな感覚。

そこには、○○くんのママでもない、あのひとの嫁でもない、どこぞの会社で人事の仕事をしている××さんでもない。何の形容詞もつかない、ただの『私』がいるだけ。

自分に文才があるわけでもなく、何かこれを書きたいという決まったものがある訳でもない。けれど、あれこれもがきながら、自分の中にある何かを、何度も何度もこねくり回し、立ち止まり。好き嫌いも混ぜ合わせたあらゆる自分と対峙しながら文章を作っていく過程が、長い長い間、沢山の鎧を心にまとって生きてきた自分を解放していくように感じて。

文章を書こうと思ったこと、実は随分前にちらっとあったのですが、その時は本当にただ思っただけでおしまい。
でも、この課題提出の経験があって、ちゃんと正面からその気持ちと向き合えた2020年7月。
そこから少しずつ、文章を書き始めて今に至っています。

この時のゼミは「自分の文才の見つけ方」というタイトルだったけど、私にとっては、「自分の見つけ方」という、貴重なゼミとなりました。


ただ、この感覚で物書きをすることが果たしていいことなのか。いつまでこのスタンスで文章を書けるのか、正直よく分かっていません。
数多のライターさんが、そしてあのゼミの最後に岸田さんが何度も仰っていたように、書くことが苦しくて本当にしんどくなることが、壁にぶち当たることが、この先間違いなくやってくるのでしょう。


それと同時に、怖さもあります。
言葉は、文字は、相反する二つの力を備えているから。
一生忘れ得ない感動をもたらす力と、一生消えない傷や痛みを与える破滅の力。

たがら、もしかしたら。
自分の紡いだ言葉が、全く望まずとも誰かのナイフになってしまうことが、あるかもしれない。
一方で、誰かの言葉で、自分が痛みを覚えることがあるかもしれない。

その時、自分がどう対峙できるのかは分からないけれど。

もしかしたら、その事実に立ちつくすしか出来ないかもしれない。
もしかしたら、そびえ立つ壁を乗り越えられないかもしれないし、また防御の鎧をまとい始めるかもしれない。
そしてやがて、書く理由も変わっていくかもしれない。



でも今はまだ、あれこれ考えすぎずに。
ただこのnoteという海を、自分のペースでふわりふわりと思うまま。
その時の自分の体温を文字に乗せ、いろんな自分に耳を傾け、沢山の景色を眺めながら。
ペンの持ち方だけは間違えないよう、一つ一つの言葉をゆっくりと紡ぎながら、泳いでみようと思ってます。

がねこって今のところ、こんな物書きです。

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