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#わたしたちの人生会議


夫や私の実家に顔を出すことなく、恒例の旅行にも行かず、ひたすらステイホームをした今回の年末年始。とはいえ、時間が足りない普段の生活でやりきれていない事があれこれと積みあがっているし、大掃除もせねばならない。例年は結構頑張れるのだが、今年は何だろう、力が全くわかない。

ここ数ヶ月多忙だった仕事からの疲れと、どうやっても一向にあがらないモチベーションのせいにして、全て最低限にと片目をつぶりさらに目を細くする。
夫と子供がゲームを楽しむ間、コーヒーを片手にぼーっと時を過ごすうち、不意に思い立って、随分と積読していたある本を手にした。

33歳。数年のガン闘病の末に余命宣告を受け、人生の最終章を、瀬戸内のとある島のホスピスで過ごすことにした女性の、ひと月半のとてもやさしい物語。
ホスピスや島で出会う人々に支えられながら、彼女は自身で閉ざしていた扉の奥から本当の自分を解放し、最後の時まで人生のQOL(Quality Of Life(生活の質))を上げることを大切にするのだが、それは結果的にQOD(Quality Of Death(死にゆく過程全般の質))の向上に直結していくー

作者買いで発行と同時に購入したのだが、それから1年以上経ってあらすじもうっすらと忘れかけた今、意図せず読むことになったのは、もしかしたら巡り合わせなのかもしれない。そう思ったのは、読み始めた後だ。



物語の主人公と、昨年の夏に旅立った親友を私は自然と重ね合わせた。
14年間、ガンと闘い続けた友。
記憶にないくらい幼い頃から、あんな時もこんな時も、ずっと一緒に過ごした友。
バカな事も、恋バナも、何でもない事も、楽しい事も、思春期の不安定さも、親との軋轢も、将来の不安も、人生での躓きや喜びも‥
何でも話して、共に大人になった友。

俺さ、今度結婚するんだ
と弾む声で連絡をしてきた少し後。
 俺、癌なんだって
 ステージⅢって
 何で俺なんだよ
と、車の中から電話してきた友。
酒も煙草も全く縁のない友。
誰よりも優しくて、何だかんだ言いながら面倒見がよくて、どこまでもお人好しな友。

この時ほど、神様を心底恨んだ事はない。
だったら、よっぽど不健康に生きていて、適当で、守るものも何もないこの私にしろよ!
何で今、何で彼なんだよ!と。

携帯の向こう側で、一緒に泣いた友。





最初に見つかったガンはオペで摘出したが、その数年後別の臓器に再発。それも摘出手術をし、抗がん剤治療などを継続したが、次第に状態は悪化し始める。

もう、それ程長い時間を過ごせないかもしれない
受け入れなきゃいけない事を受け入れ、大切な時間を過ごしていきたいと思う


4年前。とある処置の為に入院する朝。友はそうLINEをしてきた。
何かの時は妻を頼むね、とも。

思いがけない病に直面し、砂の城のように今にも脆く壊れそうな友の心を、強い気持ちで支え、生きる力を注ぎ、寄り添い歩み続けた彼女もまた、私の友人だ。

結婚が決まった直後
多くはそこには夢と希望しかない。まるでわたあめにかじりつくような、ふわふわとした甘いひと時。
でも友人夫婦は違う。
お互いに捧げあったわたあめの味を堪能する間も無く、全てが輝いて見えるような夢心地の世界は一瞬で、色濃い影を幾重にも帯びた現実へと変わった。どんな治療をするか、それにはどんなリスクがあるか。もし子供を考えた時、どんな影響があるか。これから何を優先していくか‥‥。
多くの人々が未来の夢を想像し語りあうであろう束の間の時、彼らはこんな対話を幾度となく重ねたのだろう。二人にしか分かりえない絶望や葛藤が山のようにあっただろう。

最初の手術後に結婚した二人は、常に前向きな言葉と笑顔であり続けた。それが時に無性に心配になり、折に触れ、支える側の彼女とたわいもない話をしつつ、近況を聞いた。その度彼女はこんなことを言った。

「治療は、本人の意思のままにしているの」

それは友が、”何かの時は妻を頼むね” と、自分に残された時間を強く意識し始めた後も変わらなかった。



あの朝のLINE以降、友は緩和ケアに取り組み、QOLの向上に努めた。日常生活を続けられるように抗がん剤の種類を変えたり、医療用麻薬を用いたり。全ては、妻と子供達と過ごす日々を大切にするために。
徐々に腫瘍の影響で片足の神経が麻痺し、歩くことや座ることがままならなくなっても、体力的に通勤がきつくなってきても、出来る限り今まで通り仕事を続けた。
決して受け入れたくない現実を受け入れながら、目の前の日常を大切にする。
それは本人だけでなく、妻である彼女もまた同じだった。

そして昨年の夏。
病院から、旅立ったという知らせをくれた彼女は、二言目にこう言った。

あのね、とってもいい顔をしてるんだわ
本当に、よく頑張った‥ 




最後の入院となる直前。体は痩せ細り、もはや自力で歩く事がままならない状態でも、生活の中で必要なことは自分でやりたいと言う友を、彼女は心底心配しつつ、最後の最後まで本人の意思を尊重し続けた。日常を、限りなくいつも通りにしたい、という、友の意思。


もし、私の大切な人が、と考えた時。
果たしてここまで出来ただろうか。
おそらく死期がすぐ目前に迫りつつある姿を目にしてもなお、日常を変わらず自力で過ごしたいという本人の意思を尊重させてあげれるだろうか。
治療もそうだ。
本人のためとあれこれ口を出してしまうのではないか。少しでもよくなるなら、少しでも長く生きれるかもしれないなら、という、一見本人を思っているようで、どちらかと言うと自分よがりな思いで。
ずっと、自分に問い続けている。


死は誰の元にも等しくやってくる。
形やタイミングは様々であっても、必ずその時はくる。何事もなく過ごす日々では、その事を意識しているようでしていない。知っている"つもり"でいるだけで、おそらくその本質にはあまり目を向けていない。
辺境で、ほとんどの家が3世帯、時に4世帯という環境で生まれ育った私にとって、死は比較的身近なものだった。親戚や知人の死をいくつも経験した。実の祖父母は母が介護し看取った。祖父の死に目には私も立ち会った。でも、祖父母はどうしたいか、最期の時をどう過ごしたいのかを本人と語り合ったりすることはなかった。それを家族とも。死にゆく過程について生前に語らうのはある種タブーのような風潮と、いざとなったら病院に任せる、それが皆の意識の奥底に一種の定石としてあった気がする。


でも、生きる事は間違いなく死に向かっている。何故生きるのか、と問われ考えれば、あれをする為、これを叶える為と願望の類が色々と出てくるだろうが、究極的には死を迎えるその時の為、だろう。だから、本人が望む生き方、最期の時の過ごし方や迎え方を知り、それを現実のものとしていく事は、死にゆく過程の、しいてはその生自体の質を上げることに直結する。この手元の本の主人公のように。
それなのに、私たちは生と死をどこか別物とし、切り離して考えがちだ。


事細かに聞いたわけではなく、あくまで側で、第三者として見てきた私の想像でしかないが、友人夫婦はきっと、人生会議というものを意識していたわけではないように思う。
二人は、彼の病をきっかけに、生と死を一つのものとして同じ距離感で捉え、その上で日々繰り返す様々な対話を大切にし、その中で互いを理解し尊重する。それを重ね、続けてきただけなのだと思う。
だから、
「治療は、本人の意思のままにしている」
彼らにとってこれは、本人任せということではなく、こうする事が本人の望む一番の生きる形であり、結果、本人の望む最期へ繋がる最良の道だったのだろう。

友を見送った日。最後の、全てがぎりぎりの様子を彼女から聞き、友の本当に安らかな顔を見た時。今、友の自宅の仏壇に飾られた、澄んだ笑顔の遺影を見る時。遺影を前に、穏やかな顔で佇む彼女と語らう時。友人夫婦が重ねて来たそんな対話の奥深さと尊さの本質を垣間見る気がする。


そして私は、友と交わしたLINEを時折り見返している。
うちの息子、どうやらおっぱい星人なんだよねー
そりゃ将来有望だ
とかいう、本当にどうでもいいような話に混じり、時に励ましあったり、何でもないことに花を咲かせたり、常に日常を大切にし続けてきたてきた友の沢山の言葉。旅立つ前日に私が送った、ギャグみたいな本当にたわいもないメッセージに既読マークだけつけて、静かに空へと向かった友の足跡。
ここには、友の生きた証が残されている。それは同時に友が望んだ、「最期までいつもと同じ日常を過ごしたい」という意思そのものが記してあるように感じる。でも本音じゃきっと、友はまた家族の待つ家に帰りたかったに違いないのだけど。
そしてここ数年元旦に必ず送ってくれた、綺麗な初日の出の写真と共に、今日もこのLINEを振り返る。
初日の出を撮ることはきっと、今生きているんだという証であり、今年もまた一日ずつ大切に生きるんだという、友の静かな決意だったんだろうと感じながら。



自分にも、いつか間違いなく死はやってくる。
その時まで、どう生きたいのか。最期をどう迎えたいのか。家族自身は自分の人生をどうありたいのか。友人夫婦のように、日常の様々な対話を大切にしながら、幾重にも理解を重ねていきたい。そして我が子にも、その大切さを当たり前の事として根付かせたいとも思う。



それにしても、数年前に撮ったという遺影にした友の写真。ホントにいい顔過ぎるんだよねぇ。
手を合わせに行く度、その笑顔に、ここにもう友がいない現実に、まだ泣き笑いしてばかりだ。
この涙と友が残してくれた大切な気付きをしっかり抱きしめながら、私は今を生きている。




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