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娘とグラタン

 昼食を食べ終わり、ダイニングの窓辺のソファに体を預けて町の図書館から借りてきた小説をじっくりと読んでいた時、サイドテーブルに置いていた携帯がピロリンと音を鳴らした。メールの受信音だ。
今ちょうど面白いところだから、キリのいいところまで読んでから確認しよう。そう思ったところで、頭の中で娘が怒鳴る。
「ちょっとお父さん!急ぎの用事ってこともあるんだからメールはできるだけ早く読んでよね?後で読もうなんて言って1週間そのままにされるとかほんと困るんだから。」
娘にはいつも怒られてばかりいる。家にいるなら電話に出てだとか、暑い日はエアコンをつけろだとか、毎日1Lは水を飲め、だとか。
一緒に住んでいた時もテレビの音がうるさいとか、足が臭いとか、もっとおしゃれな服を着ろとかよく怒られていたものだが、大学卒業後、就職して一人暮らしを始めてからも頻繁にメールやら電話やらをしてくるものだから、娘が巣立って寂しいだなんて思う暇もない。
 本当はもう少し本の世界に浸っていたかったところだが、娘の顔を思い出してしまったからには無視するわけにはいかず、読書を中断した私は仕方なしにサイドテーブルへと手を伸ばす。
封筒のイラストが描かれているアイコンに触れると、案の定先ほどのメールは娘からのもので、どうやら読書を中断したことは正しい判断のようだった。

『なすのぐらたんのれしぴおしえて』

 いつもは宅配便を受け取ってだのテレビドラマを録画しといてだの何かしら用事を頼むメールか、お叱りのメールかしか送ってこないので、娘からこんな連絡が来るのは初めてで、新鮮だった。

「茄子のグラタンか、レシピなんて残していたかな。」

私は立ち上がって、食器棚近くの棚からレシピをまとめたファイルを取り出し、またソファに腰かけた。ペラペラとページをめくり、茄子のグラタンのレシピを探す。
この料理は確か、妻が入院中に作ったんだったかな。

 娘は今26だから、あれはもう22年も前のこと。二人目の出産のために妻が入院し、私は1か月間娘と二人きりで生活することになった。毎日、朝は娘の要求にこたえながら出かける準備をして幼稚園に連れて行き、日中は娘の迎えに間に合うように仕事をこなし、夕方には会社から飛び出すようにして娘を迎えに行き、夜は必死でご飯を食べさせ風呂に入れ寝かしつける、目まぐるしい日々だった。
思い返せば、あの頃からもう、毎日のように娘に怒られていたような気がする。パパ、もっとかわいい服を着せて。パパ、お姫様みたいに靴を履かせて。パパ、お友達の直美ちゃんみたいな三つ編みにして。パパ、夜ご飯にスープも作って。パパ、お風呂のお湯が熱すぎる。パパ、私が寝るまでずっとお腹をとんとんしていて。パパ、パパ、パパ……
今となってはどれもかわいいお願いだったと思えるが、当時は4歳にしてもうこんなに自己主張が激しいのかと面食らった覚えがある。
それでも、娘は食べ物の好き嫌いは少なくて、何を作ろうかとそんなに迷わずに済んだことはありがたかった。当時私は料理があまり得意でなかったから、作れる料理のレパートリーも少なく、ただでさえ妻がいなくて家事に追われる中、料理に時間をかけることは難しくて、適当に肉と野菜を炒めただけでも美味しいとニコニコ食べてくれる娘には本当に助かっていたのだ。
 しかし一度だけ、食事で困ったことがあった。
娘と二人きりの日々になれてきたある日、ご近所の山田さんから5キロはくだらない量の茄子をいただき、家に持って帰って夜ご飯に使おうとした時だった。白くてまん丸の茄子の山を見た娘が泣き出したのだ。はんぷいだんぷいがいっぱいで怖い、と。
私は娘が何を怖がっているかわからず、しかし目の前の茄子を夜ご飯にすると言えばいやだいやだとわんわんなく娘に途方に暮れた。
適当に肉と炒めて食べようと思っていたが茄子が見えていれば娘はまた泣きだすだろう。しかしその時は新たに何か食べられるものを買いに行く気力もなく、なんとか外から見て茄子とわからないように料理をしたのだ。
その時にできたのが、この茄子のグラタンだ。

「おぉ、ここにあったか。」

 妻と結婚してから二人で作り始めた分厚いレシピファイルの中からやっと見つけたグラタンのレシピを、ゆっくりとスマホに入力していく。
このレシピは私が作ったものだが、どうやら紙に書き起こしてファイルに挟んでいてくれたのは妻らしい。紙面には丸く整った字が美しく並んでいる。
材料は、たっぷりの茄子と、ピザ用チーズ、市販のミートソースの三つだけ。瓶に入ったやつでも、レトルトパウチでも、缶に入ったやつでも何でもいい。市販のソースではもの足りないと思えば肉を足せばいいし、玉ねぎをみじん切りして足したっていい。もちろん自分で一からミートソースを作ったっていい。
でも、私が娘に初めて作ったのはいちばん簡単なものだから、メールにはこの三つだけが材料と書いた。
このグラタンは最後に20分ほどオーブンで焼くから、茄子はオーブン用の皿に入るだけ使う。茄子のヘタを取って切って皿に詰めてソースとチーズをかけて焼けば出来上がりだ。
どんな種類の茄子を使ったっておいしいグラタンになるが、やはりここは大きくて丸い白茄子を使うことを娘にすすめる文を最後に追加して娘のメールに返信した。後からわかったことだが、娘があの時白い茄子を怖がったのは、幼稚園で先生に読んでもらった不思議の国のアリスの絵本の中に出てきた、娘にとって未知の生物であるハンプティ・ダンプティに見えて怖かったからだそうだ。これもまた、今となってはかわいい思い出の一つだが、当時はそんなことで大泣きするなんて子供とはなんて難儀なのだと思ったのだった。

 こうやって思い返してみると、私はなんてもったいないことをしたのかと思う。娘との思い出は今思い返せばすべて愛おしいのに、当時の自分はその可愛さに気づくことができずにいた。今の口うるさい娘からのメールも、20年経つ頃には愛おしく思い出すのかもしれない。
そんなことを考えるうちに、なんだかあの茄子のグラタンが食べたくなってきてしまった私は、出かけている妻に、メールで帰りにスーパーに寄って山盛りの茄子を買ってきてくれるように頼んだ。あの白くて丸い、ハンプティ・ダンプティによく似た茄子を。

娘とグラタン

レシピ(深さ7cm、直径25cmの丸いグラタン皿1つ分)

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