日常を支配する「幸せ」願望
たまたまTwitter(現X)で知った『ハッピークラシー』という本。
2頭の羊がぼんやりと顔を向けている表紙に目を引かれた。
盲目の羊。
自分がぼんやりとそうなってやしないか、と考えた。
我々が生活している中で、何を基準に行動しているだろうか。
おそらくは幸せな状態、幸せと感じる生活を求めて、それが達成されるように動いているだろう。
《われわれの生活に毎日うんざりするほど存在》する幸せ。
だが幸せは誰もが目指すべき最重要な目標なのだろうか。
むしろ満たすはずの渇望を、持続させたり生み出している可能性はないだろうか。
ハッピークラシーは「幸せ」による「支配」を意味する造語。
「幸せ」を目指すべきという多くのメッセージは、怒りなどの感情をネガティブ(悪)として退けられ、ポジティブであることが善とされる。
誰かが10点満点のうち7点をつけたら、それは7点と等しいのだろうか。
ゆっくりと読んでいるのでまだ4分の1に到達したところ。
《幸せは希望と同じではないし、まして本物の力でもない》
妄信している幸福論が、宗教的になっていやしないか、願うだけ縋るだけになっていやしないか。
噛みしめながら読み進めていく。