『マンボー 最初の戦場 第1回(第10稿)』
チンボーと来たら、マンボー! 昔ッから、そう決まッとる! 男女平等、バンザイ!
いや、もちろん、いつだって大マジメなんですけどね、もうコレばっかりはホント不可抗力、デーハーな貰い事故みたいなもんで、くやしいです! 俺の脳波が憎い!
それにしても、ひっどいタイトルだなあ。せめて表紙画像くらい、かわいくしてあげよう。
そんな小さな善意が思いっきり仇に! えっと、ぬれてるマンボーに、ナニか問題でも? ナメてんのか、ぬれマンを! …略して舐めるのは、さすがにちょっとアレかしら。
まあまあ、そんな煎餅みたいに固いこと言わず、だって濡れ煎餅だもん、ぬれてるマンボーは。
オラッ、ケチケチせずにパ~っといくぞ、パ~っと。ああ、もうこんなにビッチョビチョのヌレッヌレだよ~、ウッ~、マンボー!
コレが俺の筆風、ただそれだけだ。
え~、と言った経緯を上手にまとめると「ぬれてるマンボーの故郷、千葉の銚子に負けてたまっかよ」でございます、はい。
さあ、ドンドン調子に乗ってくよ、お調子もんについてこい! あ、その前に、超いいこと思いついた!
ちょっくら「ぬれてるマンボー 銚子」でnote検索して、ヒットした誰かさんをフォローしてくるわ。
ただいま! 残念ながら、「ぬれてるマンボー 銚子」検索も「ぬれてるマンボー」検索も1件もヒットしなかった。
試しに、もしやと「ぬれマン」検索したところ、うちの『水曜スペシャルノンフィクションどうでしょう 第1回(第4稿)』がヒットした件につきましては、え~、ハイテクのバカ!
もういい、俺はローテックで、今ちょっとヒートテックっぽく言いましたが、要は「ローテック」→「下テック」→「下ネタテック」で対抗し、下ネタテクニシャンとしてこれからもヤッてイクイクゥ~。
さ、気を取り直して、「銚子」検索でヒットした「f●e●i●」さんって方をフォローさせて頂きました。
俺には消したい過去がある関係で、何か一言くらいコメントを残そうかと思いましたが、「銚子の方から来ました!」ってあながち嘘ではないけど大嘘の一言コメントと、「はじめまして、゛がんばれWEBメシ!”、ま、実際は゛がんばれWEB!”って感じでメシはまだまだなんですが、銚子のぬれマンって知ってる?」で始まる、まるでエロ頭おかしいオタク人みたいな長文挨拶しか思いつかなかったので、無言フォローです。大人の階段です。1%ずつ改良です(後日談。無言フォローしたところ、速攻ブロックという名の無言お返事を頂きましたので、伏字にしてリンクを外しておきました。どうも、すいませんでした)。
ついでに、「今回の読者ターゲット」は「銚子の皆さん」!(前回、「読者ターゲットは、チンボー好きでドMで電話好きな生き物にロックオン!」と書きましたが、実は女性読者を狙って『チンボー』なんてタイトルにしました。やはり時代は男女平等ということで、今回は男性読者層を狙い撃ちの『マンボー』ゆえ、「読者ターゲットはマンボー好きでドMでケンタッキー好きな生き物にロックオン! ズッキュ~ン、俺にホレるなよ」にするつもりでしたが、急遽「銚子の皆さん」に変更の運びと相成りました。大人の階段2段目!)。
そして、さっき始まったばかりの新企画、「今回の無言フォロー」は「●l●x●e」さんでしたよね!
この思いつき新企画は、うちの第1回も早10コ目を記念したモノです。そりゃ、もちろん後づけさ。
まあ、10回目なんで、そろそろ新規のお客さんを探すファンクラブ的経営努力でも始めようかしらってビジネス感覚です。大人の階段3段目!
じゃあ、わざわざマンボー回から始めるなってビジネス話もございましょうが、じゃあ、チンボー回から商売始めればよかったのかよう!
まあまあ、どっちもどっちだし、せっかくチンボーとマンボーがつながっているのに、いきなり離すのも忍びないゆえ、今回は前回の続きとなる、2000年1月25日の話にしようそうしよう(第1回なのに、前回の続きとはコレいかに!)。
後ね、チンボー、マンボーと来りゃ、分かるよな? そうさ、チンボー・マンボー・天気予報! なんと3部作! 6%!
やっぱチンボー・マンボー・天気予報の順に、『戦争未亡人マガジン(仮) vol.時系列順』あたりに並べて載せたくなるのが人情派じゃん、はぐれ刑事じゃん。大人の階段オチ! しかも三段オチ! 銀ちゃん、カッコいい…。
【2000年1月25日(火)】
10時30分、起床。はい、じゃあ、みんなでせ~の~、ちこくだ~!!!!!(ちこくだ~!!!!! は~い、2014年の俺だよ。今回は3%マシマシの副音声でお楽しみください。最近は寝れて、3時間だよね。まあ、それでも遅刻は楽しめる。7時起床のところ、5時に寝ると7時30分に起きるとかね。ありがちありがち)
あっちゃ~、やってもうたですよ(この「やってもうた」の「もうた」あたりが笑うところだと思います。「やめて~」(by2000年の俺)。えっと、2000年の俺さん、時空を無視するのはやめてくれる、混乱するから。今後も()内に登場するのは副音声こと、2014年の俺だから)。そりゃ、腕時計を見て、愕然としましたよ。目を疑いました(その前にお前を疑えよ!)。
まさかこんな一番しちゃいけない日に、一番しちゃいけないことを(またまた~、わざとわざと、最初から遅刻する気満々!)。いるよね、ここぞというときに考えうる中で一番アレなことしちゃうの(遅刻力!)。
ははは、きっと夢だ、夢オチ。夢かうつつか。夢に三千点(知ってます、はらたいらさんに3千点?)。
ああ、もう、うつつ、うつけ、うつぼ、ハイハイ、寝坊しましけど何か? しかも超寝坊ね。負けねえぞ、普通遅刻どもには(まだベッドの中でグダグダの人)。
平静を装って、寝覚めの一本、タバコのことね(寝覚めのイッポンは、朝勃ちついでオナニーのことね)。
プカァ~と紫煙をくゆらせながら、己の心の声に問いかける。起こせよ、馬鹿、ちゃんと起したもん(コレが噂の1人芝居です)。
ああ、寝坊、やっちまったなあ(まだ本音じゃないです、どこかちょっとうれしそう)。
あ、そういえば、今日は時差通勤だった。企業戦士の昼は早い、昼12時起床って感じ。もしくは重役出勤ということで、もうお寝坊部長さんなんだからってノリで(戦場特派員メモってのをネタ帳というか、2002年5月からはケータイの下書きメールにメモってるわけだけど、そういや、ある時期会社ネタが特に増えたわけ。こんな感じに。
●戦場特派員メモ17
多数派工作、内部工作。社長派、専務派、常務派。自転車操業中。開発整備投資。自称プロ戦特の鬼。最初で最後の史上最強。潤沢な資金、豊富な人脈、変幻自在の政治力。神業。放漫経営の責任。商売道具、商売繁盛。独占手記。●●商法。資金源。イメージ戦略。資金繰り悪化。非情な経営判断。地道な営業努力。いぶし銀。情報提供者の内部情報。秘蔵っ子。倒産の危機。ビジネスパートナー。情報交換。経費削減と福利厚生の両立。セールストーク。経営努力。活動資金、運転資金。無敗神話。役員報酬カット。失脚。給料泥棒。ワンマンやり手豪腕社長。殿様商売。お笑い実話の名手。禁じ手、奥の手。経済効率。労務管理。先行投資で開拓。価格破壊。営業努力。当社比。ご都合主義的展開、実人生なのに、持ってる。漫画的展開、遅刻遅刻ぅ~、晴れの門出なのに、でもココはタイ、郷に入れば郷に従いま~す。歴史改変。我が社の信用問題に関わる。世紀を跨ぐ大傑作、ってことにしたいから、2000年から21世紀派を気取るね、ホントは2001年から21世紀みたい、以上蛇足で文字稼ぎ。時間割、就業規則。服務規程。陣頭指揮。ファンサービス。商売上手。会社ごっこって分かりやすいのを表面にこびりつかせた。経済効率経費削減合理化策でまたホテル引っ越し。人件費がかさむ。福利厚生の一環で社員旅行。リストラ肩叩き、ああ、そこそこ、きんもちいい~、社長、もっと肩叩きしてよ。労務管理。ひとかど。被害者意識。商機。経営破綻。多数派の正統、王道からは外れていても、ど真ん中をいく正統な王位継投者。看板戦特。転勤族。市場調査。社内事情。大衆通俗実録モノ。営業努力。口火を切る。復活記念、期間限定毎日発行、戦場日記。これが弊社の営業スタイル、ココでサイコーの営業スマイル、ニカッ。身の上一代記。ドル箱スター。道場破り。発展家、社交家。遅刻で寝坊で。歴史的快挙。偵察隊、番号1、よし、全員いるな、ちょっと悲しくなってきた。発案者、考案者。タイムセール。足かけ12年、足長ッ!チンコもね。営業自粛。ビジネスパートナー。業務妨害。12年落ちだって大丈夫、腐るネタじゃないからさ、ネタって言うな、創業12年の老舗の味をお楽しみあれ。生中継らしき気取り(12年ばかしタイムラグあり)。12年前と同時進行ドキュメント。仕事柄。本家本元。秘伝のタレ。勝利秘話。自称戦場特派員王国大国日本。夜の顔。夕方起床、今日は遅番かあ、うちの会社はホント、シフトが複雑だわ。私利私欲。1900年代、最後の年、最終月。水先案内人。夜のバンコクで繰り広げられるマネーゲーム、日本の母に金送れコール。ベトナム戦争から逃げたら敵前逃亡、メソトからは単なる帰宅。ちょっとくらいご都合主義進行があってよ~。最大の功労者。商魂逞しい、商売繁盛。円満退社。最後の褒美でエアインディア座り放題、満足の一服。私財を投じ。将来有望成長株。経済波及効果。逃亡資金。伝統芸。神憑り。家庭の事情。寵児。華。お家芸。凄腕。経済基盤。箝口令。逃亡資金。経営責任を問う。通常営業。売上倍増。敗者復活戦。地元、この辺じゃ顔。企業戦士。方向性の問題さえ解決すれば。発表会。マイホーム主義。横領。アイツも昔は俺が世話してやってさあ。人選ミス。時代の花。騙して一儲け。総本山。本家本元。商魂逞しく。人間国宝。無形重要文化財。社用族御用達。タイムサービス。クリスマス商戦。我が社の命運。企業イメージ悪化。この道12年迷子。価格破壊。日本屈指、日本の自称プロを一身に背負ってきた重鎮。飛ばされる干される。広義狭義の意味でもオフィスラブ。売り物に手出すな。大事の前の小事。死活問題。金持ちの道楽、貧乏人の道楽。売名行為。密航。長年歴史の闇に埋もれざるを得なかった栄光の記録。男のおしゃべりはお口にチャック、ようやく見つけた男の花道、黙って行かせてください、お口にチャック!極秘捜査。機密書類。地球のためだ、世界平和のためだ。長旅でお疲れ。私情には流されぬ。敵情視察団。一人相撲、はっけよい残った!営業妨害。お手柄、二階級特進。年末調整。福利厚生。業務連絡。新機軸。夜勤、毎晩がヤマ。シフト調整。トップセールス。営業妨害。やり手。こうし。いや~、やめて~、商売道具の顔だけは、お犬様!雲の上を歩くようにフワフワ日々を過ごす、雲の上の存在感はどうよ。秘密諜報員。任務完了。我が社は安泰。自称の後遺症。前日談、前日茶番劇。経営感覚。その道の大家。戦略。帳尻合わせ。経済効果、血道をあげる、血祭り一丁あがり!サイドビジネスマン。俺は自称四天王の栄えあるひとりめ。成功報酬。営業部、今日は経理部、明日こそすぐヤル課。営業妨害。全国展開、フランチャイズ。舞台設定、せめてお膳立て程度の言い種で。人材確保。独立採算。身銭を切って。男には負けると分かっていても1%の勝機があれば、一歩も引かず勝負を挑むしかない、そういう下痢時のスカシ屁野郎の話でなく、あ、こりゃ絶対屁だと思ってのスカシ屁だったから、さあ、大変、腰が引けてるどころか腰をガンガン振りながらのスカシ屁だったから、大惨事に。裸一貫、上は着てますぅ~、ヤリ直し、まずは一からスカシ屁のイロハを。私腹を肥やす。働き盛り、いや、まだ食べ盛りだ、育ち盛りだもん、大きくなれよ~。金策に飛び回る。お客様第一主義、客目線。利益至上主義。マックにあの人ありと呼ばれた。信用と実績。国家戦略。経済事情を圧迫。資金難。資金繰り悪化。あだばな。悪徳商法。商売道具。メソトの描写後に「※文章はイメージです」と記載。経営努力。堅実経営がモットー。これが私の仕事術、オフィス活用法。職場放棄はできん、でも俺の職場はバンコク、いやタイ全土、いやいや世界中だから、職場放棄にはならん!市場の活性化。市場規模。商業主義に毒されたい。市場原理。企業努力。仕事熱心。商機。創業12年、干支一回りの信頼と実績。無借入借金の健全経営がモットー。急激に業績悪化。草分け、起源、業績。社員教育。殿様商売。甘い汁。笑いあり涙あり愛と勇気と努力と根性のド演歌浪花節。経営責任。模範的回答。ベア0。経済効果は計り知れない。側近。社風。競争原理。お手柄。自称プロ戦場特派員人間。放漫経営責任。親分風。兄貴風。創始者。発明家。閑古鳥。青写真。裏稼業。公益のため。私腹を肥やす。商法。名前肩書き貸し。名前勝ち。胸を貸す。運命のいたづら。ルール上セーフ。20世紀最大の謎。ダラダラ延命措置。純粋培養。屋台骨が揺るぐ大事態。駆け込み寺。資金調達、資金運用。寺銭、大穴、オケラ街道。経営努力。学習能力。怪文書騒ぎ。自己投資。損得勘定。風雲児、快男児。充電期間、自称プロ戦場特派員界復帰。電撃帰国。単身赴任だと使用人臭が、単身渡泰で。千両役者。エースで四番に、敗戦処理の八面六臂の大活躍、負けたけど。本日の業務は終了、お役所仕事、殿様商売。本家本元。檜舞台。貴公子。覇をとなえる。屋台骨。不動の地位。豊作。草分け的存在。窓口業務。書類仕事。ちょうど秘書でも雇うかと考えていたところ。大立者、立役者。生命線。生涯。敗戦処理。引退興行。引導を渡すのは社長、貰うのもシャチョさん、社長に渡してもすぐパスしそうだからな。世界の名だたるのと肩を並べ。金銭トラブル。海外逃亡犯。海外赴任。責任者出てこい、今、ちょっと席を外しておりまして、どうせマックの席を温めているんだろ、補欠じゃない、マック皆勤レギュラーだ!辞表を叩きつける。社運を賭けて。20世紀最初で最後の自称プロ戦場特派員。地域密着企業。現状維持。常套手段。マネーロンダリング。自称プロ戦場特派員理論。敵状視察。史実を踏まえて、プライバシーの侵害にならないように脚色も。内部抗争、内面抗争、権力抗争。職場に花をそえるマスコットボーイ。君はそうやって僕を一方的に責めるけど、僕にも一言くらい言わせてくれ、何カップ?好きな体位は?ヤラせろよ、どうせもう濡れてんだろ?うちは赤字経営がモットーだから、節税だ脱税だの隠れ蓑のエセ赤字経営とは違い、モノホンだ。経済効果。新陳代謝を進めるため、鶴首。マック語録、夕方まで粘ると少し寒い、食い飽きた。王道正統に嫌悪感。興業的には失敗。作品的芸術的文学的には成功。神話。巨頭。熟練の技。業績上方修正。現場主義、御百度参り、夜討ち朝掛けなんて、単なるストーカーの大義名分じゃねえか。商談。本人の名誉の為に言っておくが。抜本的対策が急務だよ、チミチミ。汚名。社会貢献。食指。腹心。逃走資金、潜伏生活。ドル箱スター。黎明期。後進の指導。1日駅長みたいに、1日自称プロ戦場特派員。医者に止められているから。海外展開。決死の潜入取材。損得勘定。潜伏生活。まだ心の準備が、積極的にいくと、経験豊富なベテランと誤解されちゃう。新人の登竜門。ビジネスパートナー。開眼。始祖、開祖。シーンにカムバック。俺が法律。遊覧取材、物見遊山取材。遠征。現役復帰、職場復帰、実戦復帰。一身上の都合により。右腕、左腕、両腕食べちゃった、残ったポテト二本はこうして消えた。伝道師。寝かして、醸造。蔵出し。商業的、興業的には大失敗、大コケ。資金繰りが悪化。粉飾決算しとりましたばい。売れ筋狙い。救世主。常套手段。箝口令。国益。骨を埋める覚悟。一身上の都合で。夜間外出禁止令。お払い箱。ご意見番。泰斗。経営悪化。経済効果は計り知れない、計算苦手ゆえ。パフォーマンス。失言。なりすまし。生涯イチ自称プロ戦場特派員。自称プロ戦場特派員の産みの親。引導を渡す。トラブルメーカー。敵に回す。語り草。原因不明。自称プロ戦場特派員根性。頭角を現す。ドル箱スター。悟った。及び腰から本腰を入れる。単身渡泰。世論操作。偏向報道。粗製乱造。神業。定石通り!戦場取材は水物。資金調達。企業努力。風評被害で倒産の危機。看板自称プロ戦場特派員。日曜自称プロ戦場特派員。戦場手当て、危険手当てなし。12年の集大成。出生の秘密。男のやる仕事じゃない。我が世の春。男の本分、本懐。たまたま裏目連続。職権乱用。現物支給。20世紀最大の。日本で一番ラチャブリに近い男。進路相談、三者面談、先輩のイケズ。俺とハンバーガーとコーラの、ポテトもご一緒に如何ですか?インスパイア、自己模倣。利権狙い。食指を動かす。浮き名を流す。巨万の富。生え抜き。国益。自称プロ戦場特派員界のご意見番。水面下で交渉。最後の切り札。○○効果。黄信号が灯る。自称プロ戦場特派員から、職業自称プロ戦場特派員へ。陣頭指揮、勇気ある撤退~。新天地のマックへ。デビュー12年、自称プロ戦場特派員生活12年。お色気。茶番劇。電撃。戦略。主導権を握る。ワンパターン。ファン感謝デー。食指を伸ばす。電撃訪問。最大の功労者。事実無根。兵糧攻め。重鎮。水面下でタフな交渉。商用。悪徳商法。内偵。教科書通り。勝ちパターン。ワンパターン。助け船。営業妨害。経済制裁。取材源の秘匿。経済効果。私利私欲。ほとぼりが冷めた。請け負い人。潜入文章。解禁。語り部。永世自称プロ戦場特派員。話題作り。ネタ作り。守秘義務。ドクターストップ、ゴットハンドのヤブ医者の俺。経済効果。鳴り物入り。順調な滑り出し。長丁場。苦労人。営業妨害。長老格。老舗。ドン。何が憧れの海外勤務だ!1989年1月~2010年2月まで朝日新聞の縮小版を調べる、特に95年のマナプロウ陥落を調べる。オマケで1987年1月~3月。1988年1月~12月、特に3月の大規模な反政府運動、9月18日の軍事クーデター。済みは、1988年1月~12月(4月のみまだ)、1994年9月~2000年12月。1997年3月8日の新聞記事が役立つ。1999年12月15日~2000年2月5日の日記に順次、ホットメールの携帯の戦場特派員のネタを振り分け、新聞記事、本、ネット、ホットメールの参考記事などで参考資料を読み込んだ後、振り分ける。時系列順に清書し保存後、時系列順を構成順通りにし、構成順に清書後保存。
とまあ、ある時期は2012年頃か。まあ、読みにくいけど、ネタ帳なんてみんなこんなもんでしょ、あくまで自分用の覚書きだから。ま、こうやって思いついたときに書いて、ケータイのメールがいっぱいになったら、パソコンのメールに送って、そのままワードにコピペすればいいだけだから、ハイテク様々ですよ。まあ、パソコンを買い替えるたびに大変なんですけどね。この問題もどうにかして、理系さんよ!)。
誰にでも経験があるたった一度きりの一夜の過ち、その名も夜更かし(毎晩ヤッてたくせに、このこの~)。
大事なのは労働開始時間じゃないし、労働時間でもないし、労働意欲なんてクソくらえだ。そう、労働の質こそ、一番大事なんだ(質が一番問題ありちゅうね)。
あ、荷物のパッキングもしてねえじゃん、起き抜けにチェックアウトも無理じゃん。昨晩の俺、夜食はしっかり食ったのに、トチ狂っていたのでしょうか。コイツ、ホントバカじゃねえの(ホント2000年の俺はバカだわ、「お前もな、2014年の俺よ、ナニしてんだ、ココで?」(by2000年の俺)、うるさい、いろいろ事情があんだよ。てか、さっきも書いたけど、時空を無視すんな!)。
鬼早で荷物を詰め込む。朝も遅からせっせとパッキング。今更だけど、荷物多過ぎ(だって、寝袋とかまで入ってるからね、従軍取材中のジャングル泊用に)。
今まで溜めに溜め込み爆発寸前だった勤労意欲の大半をココですべて放出して無駄に費やす。なんかドッと疲れちゃった。ペース配分を間違えた模様(コツコツ貯めこんだ勤労意欲が、鬼早パッキングで霧散したというお話です。そして間違っているのはペース配分ではありません)。
あ~あ、寝る前に荷造りくらいしておけよ。ああ、成功報酬は無理でも、失敗報酬ならたんまり貰えるのになあ(それなら今頃、大金持ちだ)。
さ、ようやく荷造りも終わったし、後はもう遅刻だ~とトーストを食わえようとして気付く(遅刻にはトーストという昭和テイスト丸出しの、って副音声は必要か?)。
11時、夜逃げするように、チェックアウト。もしくは「超寝坊した、遅刻だ~」とトーストをくわえながら、フロントスルーでチェックアウト。はいはい、ええ、ウソですよ、ウソっす、チェックアウトしてねえよ(嘘嘘)とすべて定かでないまま、駅に向かう(トリプルノンフィクション!)。
う~ん、でも本当にチェックアウトしたかなあ(時効時効)、そういや払ってないかなあと定かでないまま、今度こそ本当にメータータクシー(60B)でフォアランポーン駅へ(そういえば、「三つ子の魂百まで」って言うの嘘だよね。だって昔の俺は遅刻するようなガキじゃなかったもん! 学生さん時代はちゃんと普通にレールの上を歩いていたから、まあ、そんなありふれた時代のことは基本話す必要はないと思ってるけど、まあたまには遅刻にまつわるエピソードをひとつくらい。昔から゛長”とつくものになるのが生理的にイヤで、小学校のクラスの班の班長になるのすらもムリだった。例えジャンケンに負けても、散々ゴネて危機回避するアグレッシブな小学生だった、「゛ちょう”なんて、あちょーだけで十分だ」てな勢いでですよ。しかし、小6のとき、近所の子供で組む通学班の班長だけは逃げきれなかった。その班の6年生は自分だけだったからだ。それでも「別に5年生でもいいだろ」としっかりゴネたが、さすがにやらされることとなった。おはよう広場と立て看板の刺さった空き地がうちの班の集合場所で、集合時間は確か7時20分だったろうか。うちのあたりはちょうど学区の境目で小学校まで歩いて30分かかった。班長初日、俺は集合時間の10分前には集合場所で待ち構えていた。班員たちはてんでばらばらにゾロゾロとやって来る。前年というか、春休み前の3月まで、うちの通学班は小6の女が班長でよく言えば和気あいあいのアットホーム、普通に言っても班長のリーダーシップはゼロで、当然班のまとまりなどなく、集合時間もまちまちで、ダラダラと登校する感じだった。もちろん2週間前は、小5だった俺は率先して、適当にやっていた。基本的メンツの変わらないうちの通学班にその名残が残っているのは当然である。しかし、班長の俺にはそんな名残りは微塵たりともなかった。その証拠に、俺は班長特権で持てる、黄色い布に交通安全と書かれた旗のついた木の棒で、集合時間の10分前に一番乗りした俺の後にきた奴、つまり全員をひとりひとり、例え集合時間前に来ていても「もう二度と俺より後に来るな!」と頭を旗で殴ってやった。俺は1年生からずっと剣道をやっていたので、棒で人を殴るのは手慣れたもの。また小1から小5までピアノもやっていたので、姉妹揃って遅れてきたら、コツンコツンとリズミカルに殴れた。昔から狂信的な男女平等主義者だった俺は躊躇なく女の頭も男と同じように殴ってやった。男は俺を入れて4名で6年、5年、4年、2年。女は3名で5年、3年、1年の7人編成の通学班だった。俺は全員の頭を旗でこずき終ると、1列に並ばせ、「一言も話すな」と厳命し、先頭に立って早歩きで学校に向かった。「うちの通学班の集合時間は7時20分。登校中はおしゃべりをせず、1列になって歩く」。これが学校で決められたルールだった。当然、小5まではそんなルールを守ることはなかった。しかし、小6の俺はちょっとでも話し声が聞こえたら、犯人探しの答えが正解不正解を問わず旗で殴った。基本、班長は先頭を歩くが、列から遅れる奴がいたらその後ろにはりつき「もっと早く歩け」と旗で殴った。慣れるまでは、最後尾から見張り、スピードをコントロールするスタイルを取った。もちろん最初は新入学の小1の女以外は今までとのあまりの大違いに戸惑っていた。ついこの間までは適当な時間に集まって、横に並んでくっちゃべって登校していたのだから当然だ。しかも、犬のウンコを拾っては、投げつけて喜んでいた奴が班長になるなり急に鬼軍曹みたいになったから余計だろう。かわいそうに。しかし小6の俺は一切妥協することなく、徹底的に全員を鍛え上げ、4月の終わりにはもう立派な軍隊のような通学班ができあがっていた。この間、俺の親経由でたぶん通学班すべての親からクレームは届いた。しかし「うちの通学班の集合時間は7時20分、登校中はおしゃべりをせず、1列になって歩く」という学校のルールを守っているだけで押し通した。特に4年の男は親にちくりまくったが俺はまったく気にしなかった。小4の男は俺の弟だったからだ。今でもアレはひどかったと言われるが、ホントその通りだと思うわ。5月、6月ともなると、俺の班は学区の一番遠くなのに、学校に着くのはいつも1番になっていた。先生がまだ来ておらず、学校の門がまだ開いてないこともあった。先生によっては、「早く来すぎだ」と文句を言うのもいたが、「うちの通学班はルールを守っているから悪くない」と一切変えなかった。ホントは逆にルールを破っていた。ある地点まで来ると「話していいぞ」と話をすることを許すようになっていた。それでも学校に1番に着けるよう成長していたから問題はなかった。たまに、うちの通学班より学校に近い班が偶然早く揃って、チンタラ前を歩いていることがあった。その場合は、すぐさま「しゃべるのやめて、一列になれ」と隊列を整え、俺が先頭に立ち、小走りで追撃を始める。よく訓練されたうちの小隊は音もなく、油断しきった前の班の後ろに迫り、無言のまま一気に走って抜き去る。当然、たまたま早く揃っただけの他の通学班にまとまりなどあるわけもなく、全力ダッシュで追いかけてくる他の班の6年生や5年生以外はてんでバラバラで、うちの班に勝てるはずがない。まだ学校まで距離があれば、マラソンの最初だけダッシュするバカのように追撃してきた5、6年生も振り切った。毎朝、かなりの早足で30分の距離を通学し続けたうちの班は全員脚力も体力もあがっているから当然だ。学校の距離が近い場合は俺一人がダッシュし、他の5、6年生を完全制圧。うちの通学班は班長がいなくても、美しい統率をまとったまま、一糸乱れることなく黙々と後をついてきた。感無量。俺は小学校の6年間ずっとクラスのリレー代表だった。それは俺が小1のときの通学班の班長のおかげだ。その班長はいつもジーパンの両足にデカデカと「松田聖子命」とマジックで書いているような小6で、たぶん毎朝松田聖子命と書き直していたので集合場所に思いっきり遅刻してきていた。ほとんどいつも、学校まで30分の道のりをずっとマラソンしないと間に合わない時間だった。俺は小1でうちの班しか知らないから、通学とはそんなものと自然と受け入れていた。しかし、最初の頃はちょっと前まで幼稚園だったわけで、当然ついていけずに遅れる。この松田聖子班長は中学になると番長になるような暴れん坊だったが、どっかの班長のように小1を旗で殴るようなことはせず、あまり遅れるとランドセルを持ってくれた。この松田聖子班長がいなければ、この路線でもよかったがまあ仕方ない。結局、うちの通学班は1年間、集合時間に全員遅刻することなく、無駄なおしゃべりはせず登校し、ほとんど1番に学校に着いた。今思えば、クーデターのひとつくらい起こってもよさそうなもんだが、ひとつの反抗すら起きることはなかった。まあ、3ヶ月も経てば、大抵のことは人間慣れるもんだ。何の話かというと、昔は7人全員遅刻させなかったのに、今じゃ1人でも遅刻してるよって世知辛い話さ。後、今のところ、コレが俺の最初で最後の集団行動である)。
タクシーが駅に着く(遅い、ちゅうか、昔話長いよ!)。
「ちょっとデブね」なんて、駅のサービス係りの姉ちゃんにからかわれながら、「元マッチョだもん」なんてラチャブリまでの切符を購入(65B)(駅に無料のツーリスト案内人みたいなのがいるわけだが、たまに偽物が混じっていて、駅の外の観光会社に連れて行かれて、ボッタクリに会う仕組みってわけ)。
ついでに「俺は今から、噂のラチャブリに恐れ知らずにも乗り込むんだぜ、どうよ」って顔で誘ったが、「ヤダ、あんな恐ろしいところに乗り込むなんて素敵」みたいな展開にはならず。てか、事件のことすら知らないみたい。新聞も読まない、ニュースも見ない、嘆かわしい。ま、俺も一緒だけどね(そういえば、この期に及んでも、駅で新聞も買わなかったよ、この人!)
さあ、いよいよラチャブリと思うと武者震いがして、おしっこしたくなってきちゃった。でも、この駅のトイレは金を取るので我慢する。他にすることもないし、おっしこを我慢して節約でもするか(情報収集しろよ!)。
ちなみに、トイレ代は2Bだから、33回おしっこを我慢したら、電車でラチャブルまで行ける値段だ。あ、でも、もちろんウンコだったら話は別さ。例え大金を払ってでも、赤字になってでも、早目にトイレに駆け込む(過去のウンコ漏らしからは、ナニかを学んだようですね。あえて、1Bが日本円でいくらかは書きません)。
そうそう、ラチャブリまでの電車賃65Bは、さっきのホテルから駅までのメータータクシー代60Bとほぼ同額(昔から好きね小銭計算、公文式の弊害だね)。
ほら、やっぱ電車の方が全然安上がりっしょ、昨晩タクシーをチャーターしちゃった日には財布片手に、メーターの料金が全財産分と同じ額になった瞬間に、「ココで降りま~す」って真っ暗闇の見知らぬ土地で降りて、即立ち往生、今頃は路頭に迷っていたはず(そっちの方がおもしろかったのに、「じゃあ、お前が行けよ、ハゲ!」(by2000年の俺)、ハゲてない! ほらほら、自分同士で喧嘩しない、「誰!?」(by2000年の俺&2014年の俺))。
それがアータ、アッチの俺がそんなヒドイ目にあっていたかもしれない頃合いに、コッチの俺はちょっとモーニングコーヒーブレイク中(25B)(さっきの「誰!?」ネタは単なる尻切れトンボか、それとも今後の伏線か!?)。
発車時刻は12時25分なので、まだ時間に余裕がある。ちょっと早く着き過ぎちゃったかしら。もう少しお寝坊さんしてればよかった。それか、もう少し早いお寝坊さんだったら、後一歩の差で逃した1本前の電車に乗れたのにね。もっと早いお寝坊さんなら、予定通りの始発に乗れたのにね、クスッ(そこは、グスンだろ。本気で始発乗る気あるなら、昨晩徹夜というか、後2、3時間起きたままでチェックアウトすればよかったのにね。「翌日、最初の戦場に乗り込むんだから、ちょっとでも寝て、英気を養っておかないと」って戦場童貞のもっともらしく聞こえる声がどこかから聞こえてきそうですけど)。
朝昼兼用の飯は向こう、旅先のラチャブリに着いてからと思ったが、アッチについたらメシを食う時間もなくなるかもしれない。車内で売りにくる駅弁も悪かない。じゃあ、駅ではおかしを買い込もう。腹が減っては戦はできん。とりあえず大量の水と菓子を買い込む(56B)。否が応にも高まる遠足気分。いけないいけない、コレはあくまでお仕事だからと自分を制す(ポーズよ、ポーズだけ。緊張感ゼロ!)。
12時25分、ファランポーン駅を出発進行(ご覧の通り、この期に及んで結局、2000年の俺はこれから向かうラチャブリでどんな事件が起っているのか、ママのタレコミ以上はよく知らないまま。たぶん新聞を買うとかの知恵は回らなかったんだと思う、マジで内部告発すると。後出しで「マスコミュニケーションなんて嘘ばっか!」とか2年目の戦場童貞が何を言おうとも。まあ、内部告発者が15年目のベテラン戦場童貞ってところがコレの大問題かつ、大事な肝なんですけどね)。
乗り慣れたスカイトレインとは大違いで、まさにザ・鈍行列車って感じの三等席の車窓から、自転車のおばさんが俺を追い抜いていく光景などをボンヤリ眺める。チンタラチンタラとスラム街を走っていく。もし間に合わなかったら、絶対お前のせいだからな、バカ鈍行電車め!(お似合いお似合い)
まあ、こういうのは水物だから。本当に結ばれる運命なら、どんなに遅れても間に合うだろうし、何をやっても結ばれない運命なら、どんなに早くても間に合わない。そういうもんさ、どうかそういうもんであっておくれ(そんなムシのいい屁理屈があるか! ま、そんなもんだけどね、往々にして)。
郊外に出て、ようやくスピードをあげてきた初めての戦場行きの電車の生ぬるい風を受けながら、もしかしたらこの景色を見るのも最後かもなんてちょっと感傷的&ちょっとしたプチ旅行気分が否が応にも身体の奥底から盛り上がってきて、気分は上々! ほとんど電車に乗って、ソープに童貞を捨てにいく童貞気分だ。でも、俺の終点はソープじゃない。戦場なんだ(戦場童貞が偉そうに、ああ、はいはい、もちろん今もですけどね)。
でも、これから戦場に行くのにまるで遠足気分のところが、なんかちょっとベテラン戦場特派員っぽいね、よく知らねえけど(じゃあ、言うなよ)。
あ、ごめん、浮かれすぎ? いいじゃん、ちょっとくらい浮かれて饒舌でも。だってホントはぼくちゃん、戦場童貞だから(みんな知ってるし、俺もだよ!)、「ついに俺は戦場に行くんだ」と自然とニヤける顔をバシバシ叩く。でもすぐにニヤニヤしてきちゃう(分かるかなあ~、この微妙な男心。おっと、危ない危ない、2000年の俺みたいになるところだった)。
ま、少しくらい浮かれてもいいじゃねえかよ。しばらく黙って聞いておくれよ。もし万が一、こんなのが教科書になって、「作者のこのときの気持ちを四文字の日本語で書きなさい」って問題が出たら、「オマンコ」が正解だ!
お前らみんな100点満点! 俺は200点満点! だってよう、こんな日を10年近く、産まれてからだと四半世紀近く待ち侘びてきたんだ(産まれたときから計算がありなら、今の俺なんか半世紀の8合目あたりだかんね)。
バリバリ実力はある登山家なのに(あくまで自称ね)、どの山に登ればいいのか、どの山に登りたいのかすら分からない(ホント自称だわ)、そんな状態で10年、もしくは四半世紀っすわ(逆にそこまでいくと、あくまで自称としてどこまで高みに登り詰められるか楽しみね)。
その待ち山が、待ち戦場がついに来たり。この心の機微が分かってたまるか、分けてやるもんか!(みんな、そんなもんいらないってさ、なんですって!)
そりゃあ、病院を占拠したカレン族が警察や軍隊と対峙し、撃ち合いにでもなれば、もしかしたら流れ弾が眉間に当たって、殉職するかもしれない。それもまたよし。ある意味、それもまたビギナーズラック。恐怖なんてない。まさに知らぬが仏。落馬したことなけりゃ、落馬の怖さも分からないだろ。ああ、高揚感は高まるばかり(戦場特派員冥利に尽きるよね、うんうん)。
13時過ぎてもまだ着かず、なんか疲れて来ちゃって、昼寝でもするか。これからの激務に備えて、束の間の休息のダメ押しも必要だろう。幸い南国特有のお昼寝の習慣がついていたからバッタンキュー(今度は乗り過ごしチャンスタイム到来!)
14時、野生の勘、いや、研ぎ澄まされた戦場特派員の嗅覚で、事件の匂いを間近に感じたのか自然とパチリと目が覚める。それから小一時間、駅弁(笹の葉に包まれたカレー)を買い食いしたり、オヤツを食べたりして、ようやくラチャブリ駅に無事鈍行電車がすべりこむ(すごい!)。
本当にココまで長い道のりだった。幾多の困難を乗り越え、何度もくじけそうになりながらも、よ、よくぞ、ここまで…すごいぞ、俺(バンザーイ! バンザーイ!)。
よし、昼寝もして昼飯も食ってオヤツも忘れず、俺はまさに元気一杯、不眠不休で24時間戦える。既に疲れ果てた早漏どもを蹴散らし、オラオラ取材の真髄を見せてやる(いやん、カッコいい!)。
ついに後生大事にいつも背中に背負いこみ、背もたれ部分とかに塩を吹きまくっているカメラバックの中に眠るビデオカメラだカメラだが活躍できるときがきた(撮ったらんかい!)。
ついにラチャブリの地に自称プロにしてナチュラルボーン戦場特派員チンボー見参! そう、ヒーローと俺は遅れて現れる。例えココで死すとも悔いなし。今までの集大成をすべて見せてくれようぞ、今まで一度も見たことのない、でっかい花火をジャンジャカ打ち上げてやるから、お見逃しなく(ヨッ、チンボー屋!)。
15時、ラチャブリ駅に偉大なる一歩を踏み出す(ああ、まだ電車から降りてなかったのね)。プラットフォームに立ち、さ~てと、どこへ行ったもんかと。まあ、まずはカレン族に襲撃された病院だわなあ、妥当なところで。もちろん病院の名前すら知らないが、大してデカそうな町ではない。聞けば、すぐに分かるだろう(やだ、急にたくましくなっちゃって)。
でもパッと見た感じ、バンコクから列車で3時間ほどのラチャブリでそんな大事件が起こっているのは感じられない。逆に、まるで夏祭りが終わったように静かな街が印象的だった(ドンパチ聞こえるもんじゃないしね)。
なんとなく「玄関開けたら2分でごはん」ノリで(2000年には流行ってたの!)、駅を出たら目の前が病院でドンパチやっていると勝手に思い込んでいたが、そこそこ広い街みたいだ(さっき「大してデカそうな町ではない」って書いてたよね。まあ、駅と病院しかない町だと思っていたけど、そうじゃなかった程度のニュアンスね)。
改札に向かって歩く。さ~て、切符切符、どこのポッケだっけ。右のポッケにはたばこ~、左のポッケには小銭~、いざとなったら、この小銭をまき散らして逃げる算段だ(もう小銭ネタ好きなんだから)。
誰かに病院の場所を聞こうと思っていたが、人はもういない。別に病院の場所くらい、俺の唯一の情報源、某国の情報機関にコレクトコールをかければ分かるが、いや、分からないだろうな、ホント使えない、あんなの首だ首!(ねえ~)
仕方なく改札にいた親切そうな駅員にカレン族の過激派に占拠されている病院の場所を小声で聞いた(どこにスパイがいるか分からないから)。
「ラチャブリ、ホスピタル、カレン、フエア?(訳:昨日、カレン族が襲撃し、占拠しているというラチャブリの病院はどこですか? さあ、早く答えろ、調べはついているんだ!)」
駅員は笑いながら教えてくれた。
「オォ~、ツデー、アーリーモーニング、オールフィニッシュ!」
ハイ、終了~。ビギナーズラックの大事件さんの顔を見ることもなく、さようなら~。さあ、撤収撤収、とっとと帰った帰った。ほら、散れ散れ。おい、コラ、いつまで見てんだ、見世物じゃねえぞ(写真写真、その顔を記念写真として、駅員に撮って貰え。「うるせえ、俺のカメラは難しいんだ、素人さんにイジれるか」(by2000年の俺)。まあ、2000年の俺はこの期に及んでカメラを撮る気も、撮られる気もないというね。でもコレは中2からやっている戦場特派員カスタムの一環で、なるべく写真には映らないようにしてたから。うん、プロ意識高い、学生さんだったから。プロになる前から、踏み込んだ危険な取材のせいで国外追放とかにされた場合、ブラックリストに載って、二度とその国に入国できなくなったりするから、なるべく戦場特派員はスパイ同様顔や名前を知られないように常に心がけているべきだ。だってゴルゴ13は学生時代だって記念写真とかに映らなそうでしょ)
あ~あ、もう馬鹿馬鹿しくてやってらんないね。どうせこんなオチだと思いましたよ。どうせ俺なんてモグリの古本売買にでもせっせと精を出していればいいですよ~だ。こうなるなら、一生こんな事件知らなくてよかった、少なくともタイにいる間に知ることはなかったんだ、くそ~、あの電話さえなければ、全部お母さんが悪い!(マザコン!)
いや~、それにしても、なぜタイ人、こんなときに限って迅速な行動を…。難民キャンプの取材パスはのらりくらりの挙句、ちっとも出さないくせに(タイ人のバカ!)。
まあ、不幸中の幸いで、唯一の救いは一本前の電車でも、始発電車でも、たぶん昨晩タクシーを走らせても、早朝に間に合ったかどうか微妙なところ。経費の無駄使いがラチャブリ往復の電車賃で済んだと思えばつらくないもん(小銭的にはね)。
でも、なんか疲れちゃった。中2から10年以上、いや、例の産まれたときから計算なら四半世紀近く張り詰めていた緊張の糸が切れた。もうプツンと切れたね。プッツン女優の気持ちが初めて分かった。なんだこのダジャレは?(ダジャレか?)。
こういうとき、人間はどういう行動を取るか分かりますか? まずあてどもなくトボトボと見知らぬ街を歩き出します。駅前にたむろしていたツゥクツゥクやバイクタクシーのドライバーがワラワラ寄ってきますがぼんやり無視してるとそのうち消えます。もう意気地なし。今がチャンスなのに。誰でもいいから抱いて(チャンス到来だぞ、おい!)。
そうだ、例の病院を探して、後の祭りでも見に行こう。ううん、また嘘嘘、ウソップ。そんなこっぴどくフラれた女の家をこっそり見に行くようなストーカープレイを、誇り高き自称プロのナチュラルボーン戦場特派員の戦場童貞プライドが許さなかった。てか、ボーボー燃えてるからこそ、野次馬だ火事場泥棒だが集まって賑わうんだ。燃えカスなんかを見に行くのは警察と放火魔くらいだ(2000年の俺は、せめて病院くらい見に行こうなんて殊勝なことはまったく考えなかった。新聞すら買わなかった男が、終わったことをホジくり返してどうすんだ。そんな傷口に塩を塗りつけるような下衆な真似できるか。俺は下衆は下衆でも、そういうのとは違う種類の下衆野郎だから。第一そんなすぐにやられちゃうような弱いゲリラに興味はない)。
とりあえず駅を出て、闇雲に歩き出したのはいいが、この後どうするか、どこに行けばいいかも分からない。ふと目を上げて、たまたま目に飛び込んできたのがケンタッキーの看板! エッ、こんな地球の歩き方にも載っていないような小さな町アラチャブリにあのケンタッキーが! コレは夢か現か(もうどっちでもいいよ~)。
こういうときこそ、予期せぬ事態にも慌てず騒がず落ち着いて咄嗟の判断が求めれれる、自称プロのナチュラルボーン戦場特派員の真の成果が問われる。自称プロ戦場特派員たるもの思わぬところでケンタッキーと出会ったらこうすべし。もうヤケ食いですよ、死んだ鳥の死肉を。コンチキショ~、コケコッコーてな具合に食って食って食いまくりですよ、鳥を(コケコッコ~!)。
もはやどんな類の涙も流れない。だって涙を流してもぬぐえないじゃん、こっちは両手がケンタッキーのせいでベトベトしちゃってるんだから。ちょっとコレどうすんのよ、ってなもんよ。これこそ、由々しき根源的ケンタッキー問題ですよ(???)。
16時過ぎ、なんかケンタッキーをヤケ食いしたら(69B)、軽い挫折からやや立ち直って、少し気分がよくなったのでタクシー(50B)で『Namsin Hotel』に乗りつけ、チェックイン(350B)。
旅の汚れと疲れと両手のケンタッキー汚れを落とすこともなく、タバコを吸いに吸いっからす。そして、ただ日が暮れていくのを、薄汚い部屋に差し込む光が段々薄くなってゆくのを、今日という何でもない一日が終わりに近づいているのを、ベットに腰掛け、ただただ黙って見ているしかなかった。寝すぎて昼寝したくなかったし、ちょっとこういう自分に酔っている面は否めないよね(てか、ノンアルコール中毒こと、ノーアル中!)。
18時、久しぶりにタイ飯で夕飯(67.5B)。そういや、ラチャブリ慣れをしてないと気付いたが、もう明日バンコクに帰るからいいや(あ、もう帰るの?)
19時、セブンイレブンがないので雑貨屋っぽいところで水とジュースを買い込み(18B)、ホテルに戻る。なんか調子が悪いなあ。風邪かなあと思っていたが、そういや、緊張の糸が切れていたのであった。極限までピンピンに張られて、後は思いっきり前に飛び出すばかりだったのに、真下に落下のバンジージャンプ(なんやかんや言って、カレン族のラチャブリの病院襲撃に思い入れなんてなかったくせに)。
1時、就寝(ココは2014年の俺から、2012年の俺に変更ということで。じゃあ、マスター、いつもの。2012年の俺がお送りする、さっそく12年後の後日談。ちなみに後日っても12年近く経って、ようやくこの事件の全貌を明らかにしてみた。というか、今回調べてみて、へー、そういうことだったんだあって話。ラチャブリ事件が新聞沙汰になったのは3日間だけ。でも一面は飾ったよ、夕刊だけど、ホント間が悪い。2000年1月24日某新聞夕刊2面、1月25日某新聞朝刊9面、1月25日某新聞夕刊1面、1月26日某新聞朝刊9面。後追い取材の結果、俺がまだ高いびきだった本日早朝、カレン族のゲリラは全員射殺されてました。チャンチャン。俺に目をつけられたのが運の尽きさ、コイツらも自称プロのナチュラルボーン戦場特派員業界も。そして、12年後も戦場童貞の高らかなる負け惜しみですが、逆にモノにできなくてよかったよ。もし万が一、この最初で最後の超大チャンス、ビギナーズラックをモノにできてたら、初心を忘れて、何の節操もなく事件が起るたびに世界各国を飛び回る特ダネ班みたいな日々を送るハメハメになるところだった。でも、お陰様でまだ見ぬ女体に想いを馳せる三十路童貞のような気持ちを保持しております。カチンカチンの冷凍保存さ。さあ、果たして、2000年の俺はこの先どうするのか、諸君、これぞ、まさに2000年問題じゃないか。…ごめんちゃいな、それが言いたかっただけ)。
○本日の出費、「計算するのが面倒臭いから、各々で適当にしといてよ」B。ついでに一日の流れも「いちいちうっとうしいから誰か簡単にまとめといて」ジャ~。
*以下、ネットで拾った今回に役立つ参考資料です。
●【カレン兵士による病院占拠事件】
http://www.lookthai.com/jp/info/tplgodarmy.HTM
「2000年1月24日「神の軍隊」を名乗るミャンマーのカレン族ゲリラがタイの国境を超えラチャブリ県の病院を占拠し、人質300人を盾にタイ政府に対しカレン族避難民への攻撃やミャンマ政府に対し援助を止めるよう要求しました。
このテロ行為に対しタイ政府は1999年10月のミャンマー大使館占拠事件とは違う強行手段をとりました。10人のゲリラを全員射殺したのです。しかしこの政府の取った行動はタイ国民から支持を得ています。
1月24日にカレン族ゲリラは病院を占拠した。そしてタイ政府に対し以下の要求を出した。
1)すぐにカレン族避難民への攻撃を止めること。
2)カレン族避難民の宿泊所を用意し怪我人を手当てすること。
3)カレン族と戦っているミャンマーの軍隊に対する援助を止めること。
4)ミャンマー政府に避難民に対する攻撃を止めるよう圧力をかけること。
5)カレン族への攻撃を命令したタイ軍隊の責任者を罰すること。
これに対しタイ軍隊はカレン族避難民に攻撃したことは無いと否定した。しかし1週間前カレン族軍体と打ち合いになったことは国防筋も認めた。
ゲリラが主張する避難民への攻撃は1999年12月19日に彼らと交戦したことに関係があるかもしれない。このときにはカレン族の地雷でタイ兵士4人が死んでいる。
「我々は越境して来る者に威嚇の射撃を行ったことがあるが彼らのミャンマー居住地に攻撃を行ったことは無い。また我々はミャンマー政府を助けているわけではない。」とスウラユッド将軍は彼らの主張に反発した。
その後ゲリラが武器を捨て投降し、人質を解放するならメディカル.ケアを考えても良いかもしれないとスウラユッド将軍は語った。
翌日、2000年1月25日5時23分病院内で爆発が起こった。タイ陸軍がテロリストせん滅作戦を敢行したのだ。
それは1時間も経過しないうちにカレン族兵士が全員が射殺され成功して終了した。
10人を射殺した行動に対し決断を下したチュアン首相は「彼らが残るかか我々が残るかをかけた深刻な決断だった。」と語った。
ある報告では降伏したゲリラを射殺したらしいとあったがチュアン首相はこれを否定した。「彼らの人命人権が主張できるのはタイ人の人質が全員無事に開放されたからであって、もし我々の誰かが殺されていたら何故危険な彼らを射殺し守らなかったのかと言われるだろうう。」とチュアン首相は語った。
10人全員射殺はやり過ぎではと言う人もいるようですが機関銃や手榴弾を持ったテロリストを相手にしている場合人質の安全確保のために全員殺すことがタイ政府が取った行動でした。これはタイ国民に支持されています。
日本政府でしたらどうでしょうか。多分人質が殺されてもこういう決断出来ないのではないでしょうか。なぜなら命は同じく尊いものだからと言うでしょうね。
世界でそんな理想主義は通用しないかもしれません。自国民を守るのが軍隊.警察の役目の1つです。」
以上、2012年の俺が未来の便利グッズ、ある意味、飛び道具たるネットの検索機能を駆使してお送りしました。
ちなみに、この2000年1月24日、25日のカレン族病院占拠事件の3ヶ月前くらい、1999年10月にもカレン族関係者も含むタイのビルマ大使館占拠事件なんて大事件もあったのね(以下の参考資料参照)、ちょうど1999年の俺は出発前のバタバタの時期で全然知らんかったわ、12年後の今の今まで。でも一切不便不都合不愉快ナッシング。
●【バンコク・ミャンマー大使館占拠事件の奇怪】
http://tanakanews.com/991023burma.htm
「もしあなたが、アメリカのビザをとろうと思い、東京・虎ノ門にあるアメリカ大使館を訪れたちょうどその時に、武装したゲリラ集団が襲撃してきて、そのまま人質にとられ、24時間後に解放されたとしたら、どんな気持ちだろうか。
あなたが、日ごろからアメリカの世界戦略に反感を持っていて、しかも犯人たちが反米スローガンを掲げる人々だったとしても、自分を人質にしたゲリラを憎み、一刻も早く大使館から逃げ出したいと思うのではないだろうか。
ところが、10月1日から2日にかけて、タイの首都バンコクにあるミャンマー(ビルマ)大使館に立てこもったゲリラたちによって、人質にされた人々の反応は違った。襲撃から25時間後、タイ政府との交渉がまとまり、犯人たちが大使館を出る時、解放されることになった人質の一部は、ゲリラとの別れを惜しみ、涙を流したり、ゲリラと抱き合ったりした。
▼警報機は鳴らなかった
襲撃は、10月1日の正午前に起きた。5人のミャンマー人青年が、バンコクの中心街にあるミャンマー大使館にやってきた。5人のうち2人はギターケースを持っており、その中に機関銃「AK47」が隠されていた。大使館の入り口には金属探知器があったのだが、なぜか警報は鳴らなかった。
5人は大使館に入ると機関銃を取り出してかまえ、館内にいた全員を一カ所に集めた。大使を含むミャンマー人とタイ人の職員、それからビザをとりにきていたアメリカ人や日本人など、合計38人が人質となった。
「ビルマ学生壮士会」(Vigorous Burmese Student Warriors)と名乗る青年たちは、庭に掲揚されていたミャンマーの国旗を引き下ろし、代わりに孔雀を描いたビルマ反政府運動の旗を掲げた。そしてミャンマー政府に対して、政治犯の釈放や、1990年の選挙で反政府派が過半数の議席をとった選挙以来、全く開かれていないミャンマー国会を召集することなどを要求した。
それまで大使館は、バンコクに2000人ほどいる亡命ミャンマー人学生が、母国政府を非難するデモの際の目的地となることは多かったものの、武力によって襲撃されたことはなかった。ミャンマーの反政府運動が、非暴力の方針を貫いてきたことが一因だった。だが、周辺の状況からすると、襲撃はいつ起きてもおかしくなかった。
ミャンマーからタイへの政治難民が増えたのは、1988年8月8日、ミャンマーで大規模な反政府行動が起き、政府の弾圧によって3000人以上が殺されてからのことだ。それ以来、12万人のミャンマー人がタイへ逃げ出した。国境沿いのタイ領内には難民キャンプが作られ、一時はそこを拠点に、機関銃などの武器を調達し、ミャンマー側に攻め込むゲリラ軍も組織された。
いくつかの報道を総合すると、襲撃犯は、国境沿いの難民キャンプからきた人と、襲撃の数日前にミャンマーから「バンコクに難民申請しにいく」とタイ側の係官に言って国境を越えてきた人の、混合グループだった。彼らが持っていたAK47や手榴弾は、国境付近にいるゲリラ部隊から調達してきたと考えられている。
タイとミャンマーは、歴史的なライバルだ。そうした背景もあって、タイは自国に入ってきたミャンマー人亡命希望者をあまり抑圧せず、いったん難民として認定した人には、国内を移動する自由も与えていた。難民キャンプでは武器が手に入りやすく、しかもバンコクに出てくることも簡単である以上、ミャンマー大使館を襲撃しようとする青年たちが現れることは、時間の問題だったともいえる。
しかもこの大使館は、タイ当局による警備が甘かった。入り口に警察官が一人いるが、居眠りしていることが多かったという(AsiaWeekの記事による)。ミャンマー政府は、タイ政府に対して、大使館の警備を強化するよう求めていたが、改善されなかった。
▼「テロリストじゃない、民主活動家だ」
タイでは、民主化要求を弾圧し続ける隣国ミャンマーの軍事政権に対して批判的なマスコミや世論がある。タイ政府が、大使館の襲撃犯に対して厳しい措置を執らなかったのは、それが一因だった。犯人たちは、自分たちを難民キャンプのあるビルマ国境近くの地域に、ヘリコプターで連れていくよう求め、政府はこれに応じた。 ゲリラとの交渉を指揮したサナン内務大臣は、事件解決後に「われわれは、彼らをテロリストだとは考えていない。民主化のために闘っている学生活動家としてみている」と語った。大臣はまた「タイは仏教国なので、救いを求めてやってくる人々を見放せない」と、亡命ミャンマー人を擁護する発言もしている。
こうして、占拠事件は発生から1日で解決したが、タイ政府の寛容な対応は「テロ行為を容認している」として、ミャンマーや欧米諸国から批判された。なかでもミャンマー政府は、国営のメディアを通じて、襲撃事件は陰謀である可能性が大きい、などと批判した。犯人が大使館を出る際、人質たちから祝福されている姿をみれば、人質の中に犯人の仲間がいたのではないか、と考えることもでき、それがミャンマー政府の不満になっていると思われる。
しかも当初ゲリラたちは、ミャンマー政府に対するいくつもの要求を掲げ、それが満たされない場合、人質を一時間に一人ずつ射殺する、などという声明を発表していた。だが、間もなく彼らの要求は、自分たちをヘリコプターで国境沿いの地域に連れて行け、ということだけになり、タイ政府との交渉がまとまった。
大使館への立てこもり事件といえば、ペルーのリマ日本大使館の事件が思い出される。あのときは、襲撃犯が出した要求項目をめぐり、ペルー政府との間で、何週間にもわたって、厳しい交渉が続いた。最後は、要求に応じられないフジモリ大統領が、危険を冒して強行突入に踏み切った。
その例でも分かるように、大使館占拠事件といえば一般に、ゲリラが政府に要求を認めさせるためにやるものであり、ぎりぎりの交渉が何日も続くのが普通だ。少なくとも今回のように、軍のヘリコプターに乗せてもらうためだけにやるものではない。
そう考えると、バンコクでの大使館占拠事件には、他の同様の事件とは別の種類の目的があったのではないか、と推測できる。その目的として考えられることの一つは「9999」である。
▼8888と9999
ミャンマーで大規模な反政府運動が起きた1988年8月8日は「8888」だったが、数字に関する縁起を大切にするミャンマー人が、反政府運動の次の節目として考えたのが「9999」、つまり今年9月9日だった。
だが9月9日を前にミャンマー政府は、民主活動家と思われる500人以上を逮捕するなど、取り締まりを徹底したため、当日はミャンマー国内では、ほとんど何も起きなかった。だが、ミャンマーでは経済が年々悪化する方向にある上、最近では市場でのコメの値段が上がったり、通貨チャットの対ドル相場が下落するなど、一般の人々の生活状態が悪くなっている。そんな中で、苛立ちを募らせた青年たちが、警戒の薄い隣国タイでの大使館襲撃を企てた、という可能性がある。
(ミャンマー人、特に現在の軍事政権が数字で縁起をかつぐことの代表例が、お札である。ミャンマーで発行されてきた紙幣の中には、15チャット、45チャット、75チャット、90チャットなどが含まれている)
88年に民主化が弾圧されてから10年が過ぎ、タイに亡命してきたミャンマー人による反政府組織がいくつも作られ、乱立状態の感がある。だが、祖国の民主化という目的は、ほとんど達成できず、袋小路に入った状態にある。
襲撃犯である「ビルマ学生壮士会」は、今年8月末に作られた新しい組織なのだが、彼らは、大使館襲撃という目立ったことをして、運動全体のじり貧状態をショック療法で立ち直らせることを目指したのではないか。だから、世の中の注目を集めただけで、襲撃犯は目標を達成し、再び国境のジャングルに戻ってしまった・・・。タイには、そんな風に分析する人もいる。
一方、ミャンマーの反政府運動はこれまで、全体の方針として非暴力を貫いてきたため、アウンサン・スーチー女史が率いる「国民民主連盟」(NLD)をはじめ、主要な反政府組織は、今回の武装襲撃を批判している。とはいえ「テロリズムは反対だが、暴力に訴えたい青年たちの気持ちは理解できる」というのが、ミャンマー人の「大人」たちの組織の本音のようだ。同様の立場は、海外の支援NGO組織や、タイ政府の反応からもうかがえる。
▼コソボと同じ「非暴力運動」の限界
この状況は私からみると、コソボにおける「非暴力派」と「武闘派」の対立を思い起こさせる。コソボではもともと「コソボのガンジー」と呼ばれた、イブラヒム・ルゴバという反政府リーダーが、セルビアからの独立を掲げ、非暴力運動を続けていた。
だが、非暴力に徹したがゆえに、セルビア軍からの弾圧は、逆に昨年後半から強まってしまった。業を煮やした若者たちは、非暴力運動に見切りをつけ、武装組織「コソボ解放軍」(KLA)へと流れ込んだ。最後はNATOの空爆開始によって「国際社会」自らが、武力による解決方法を選択してしまい、コソボの非暴力運動は、ほぼ消えた。結局、KLAを中心としたアルバニア系「武闘派」は、アメリカと話をつけ、事実上コソボの「独立」を勝ち取ることに成功している。
そもそも、第三世界の非暴力運動の発祥地であるインドでも、ガンジー以来の流れを組む国民会議派は、先の議会選挙で、より過激な宗教系政党である人民党の連立与党に破れている。つまり、最近の世界情勢から見ると、一般の人々が武器を手に入れやすくなっていることなどを背景に、もう穏和な非暴力運動は、人々を引きつけなくなっていると考えることができる。
ミャンマーの青年たちが、そんな世界情勢の影響を受けたとは言い切れないものの、今回の事件を機に、第2第3のテロリズムが、ミャンマー反政府運動の非主流派として広がり、運動全体が暴力の方向に引っ張られていく可能性がある。
もう一つ考えるべきことは、事件からタイ政府が得たものについてだ。事件発生後、タイ政府による情報収集や対策は、機敏でなかった。たとえば大使館の周辺で、携帯電話や無線が使えないようにする妨害電波発生の措置を、即座にとらなかったため、襲撃犯が外部と連絡をとり、ことを有利に運べる状態が続いた。
にもかかわらず、困窮するミャンマー人の心情を理解し、事件を穏便に解決したということで、タイ政府に対する評価が高まった。同時期に日本で起きた東海村の核燃料事故で、日本政府の対応が強く非難されたのとは対照的だ。
しかもタイ政府は事件後、タイを批判するミャンマー政府に対して、「もともとタイにミャンマー人難民が押し掛けてくる原因を作ったのは、ミャンマーの方だ。他に行くところがない亡命者を受け入れざるを得なかったわれわれが、ミャンマーから批判されるのはおかしい」と反駁した。
これまでタイ政府は、はっきりミャンマー政府を批判することが少なかった。(東南アジアでは、他国の内政問題に口出ししないという外交上の不文律がある)今回の事件を機に、タイがミャンマーへのスタンスを、微妙に変化させていく可能性もある。タイ当局が、事前に襲撃を察知、あるいは関与していたという兆候はないものの、タイ政府が、この事件をうまく使ったのは確かだ。」
ハイ、以上です。大変お勉強になりましたね。将来の役には立たないが、過去の役には少しは立ったかな(立った立った、クララで勃った! ←誰?)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?